抗がん剤治療と運動  アラ還マラソンランナー、まだまだ走る

乳がんで手術、放射線治療、抗がん剤治療を経験しました。

抗がん剤治療を受けることになった同時期、東京マラソンの当選を知りました。

マラソンのような激しい運動をしながら抗がん剤治療を乗り切ることができるか?

マラソンを走るようにになった経緯、その後のこと、まとめてみました。

1. 走ることが苦手で大嫌いな50歳までの人生

小学校に入るまではお家で遊ぶことが好きな大人しいこどもでした。

というより、親に遊んでもらえないので家でばかりいた、というのが正しいのかも。

小学校でも50メートル走で9秒を切ったことがありません。

それでも何故か水泳だけは才能があったのか、誰にも教えられなかったのに小学校に入る前にクロールだけでなく、平泳ぎまでできていました。

というわけで、小学校(5年生で大阪市内4位の記録をもっていた)でも中学校でも水泳は一番でした。そのくせ1キロマラソンでは下から数えた方が早い。

体育の先生に「(水泳早いからって)手抜きするな!」と怒られていたのですが、いえ、手抜きではなく本当に遅いのです…

で、こんな風に怒られるのでますます苦手になりました。

高校では卓球部。でも、「走る」という基礎練習は苦手で、運動部のくせに校内マラソン大会では全60人女子のうち下位10%。

大学でも卓球部だったけど、基礎練習の「ランニング」はなるべく避けるように…正直さぼっていました。

そんなわけで「走る」ことには苦手意識が染み付いたまま大人になりました。

2. 50歳で人生の半分を経過したことで「今までやらなかったこと」をやろうと決心した

50歳になったとき、これまで苦手でやらなかったことを残りの人生でやろう、とふと思いました。

何と言ってもこれからの人生、これまでより短いのですから。

好きなことについても「これまで以上」にやりたいと思いましたが、

これまでやらなかったことも人生に組み込むことでなんとなく自分の人生の「完成度」が増すかな、と思ったのです。

それが50歳を迎えた2008年のことです。

最初は近所の駒沢公園を1周(2150メートル)から。17分かかりました。1キロ8分かかっています…(中学生でも早い人は1キロ4分で走ります)

私のホームグラウンド「駒沢公園」↓

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2011年、震災があり、3月11日以降電気を節約するためにいろいろな設備・施設が「自粛」営業となりました。

また、「放射能」への恐怖から外での活動はなんとなく「怖いなー」という雰囲気となり、外を走ることを一時中断してしまいました(2011年5月ごろ)。

その頃には駒沢公園2周を走れるようになっていました。相変わらず34分かかっていましたが。

残念な中断でしたが、エアロビクスなど、運動は続けていました。

秋になって再び転機がありました。2011年9月に入塾した勝間和代さんの私塾「勝間塾」。

月1回のセミナー以外に塾生による自主活動(部活)がすごく盛んでした。

そのひとつに「うなかつランニングクラブ」があり、「皇居を走りませんか」というお誘いがあったのです。

2011年11月のことでした。

お勤め終業後ダッシュで皇居に向かいました。

生涯初めての「ランニング仲間」との出会いです。

大切なランニング仲間↓

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だいたい2周(1周5キロ)走るそうです。

人生でそんなに長い距離走ったことがありません。

だめなら1周でもいいから、と言われ、グループで走ると、1周はなんとか。

一休みしたあと、2周目は部長(部活には部長がいる)に伴走されながらゴール

1周目と2周目の間に少し休んだけれど、完走できたのです!

50歳をすぎて人生初めての10キロ走!!

帰りの地下鉄では足がつって大変でしたが、大きな満足感・達成感がありました。

残念ながらそのほぼひと月後、バイクで立ちゴケして鎖骨を骨折し、また走ることが中断しました。

しかし、幸い(?)骨折は肩。しばらくランニングは医師に禁止されていましたが、ウォーキングはできました。

お正月頃に届いた「駅伝参加」の案内。

5月に「谷川真理駅伝」に参加しませんか?というもの。1人5キロずつの4名ひと組のリレーです。

まだ骨折は治っていなかったけど、それを励みに練習を再開しようと申し込みました。2012年1月のことでした。

そして、5月、無事チームに合流。5キロを走りきりました。

チームとしては、第一走者が完走できなかったので記録なし、となりましたが、走れたということだけで満足でした。

3. 東京マラソン当選そして乳がん

2012年5月の谷川真理駅伝のあとは、ウナ勝の仲間と練習会やファンランなどに時々は参加しつつ、個人練習も続けていました。

2012年、初めて東京マラソンに応募。

応募することすら初めての経験でしたが、あっさり落選し、それでも当選した仲間の応援に駆けつけたりしました。

実際、大勢のランナーが走る姿に感動しました。

その頃は自分がマラソンを走れるようになるとは決して思えませんでした。

むしろ、一生涯マラソンを走ることはないと思っていました。

ところが、2回目の応募、2013年になんと当選してしまったのです。

焦りました…

いままで10キロまでしか走ったことのない自分が果たして42.195キロも走れるのか?

いえいえ、走れる訳がない。

ところが、そこにいたのが「うな勝」仲間。

マラソンどころか、ウルトラマラソンまで走りきる猛者もいます。

1人の仲間に練習プログラムを作ってもらいました。

プログラム通りにすこしずつ走れる距離を延ばし、

かなりまじめに取り組んだ結果、2014年2月の本番では初マラソン完走、4時間38分40秒という自分では上出来のデビューができました。

その後もファンランなどを楽しんでいたところ、

毎年行っているマンモグラフィー検査で「石灰化」が見られるからと精密検査したところ、7月に乳がんの診断が下りました。

2014年7月に乳がん手術。

細胞の精密検査で「転移性の高い微小乳頭浸潤がん」という診断を受けました。

当初の診断では放射線で治療が終了する予定でしたが、

術後補助療法として抗がん剤治療が必要と言われました。

8月に東京マラソンに再び当選していることがわかり、

「抗がん剤を拒否してでも出たい」と思いました。

医師の言葉では「練習はしてもいいけど、まあ、体力が落ちるから走れないでしょうね」

この言葉でスイッチが入りました!「絶対走ってやる!!」

放射線治療を受けながらも、抗がん剤の副作用(口内炎、発熱、疲労)に苦しみながらも

練習は続けました。

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ただ「走りきる」ことだけを考えていた日々。

思いのままに2015年2月、マラソン出走としては4度目(霞ヶ浦、大阪マラソン)、2度目の東京マラソンを完走しました。

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4. まとめ

抗がん剤治療は東京マラソン直後まで続きました。

治療が終わり、数ヶ月して髪も生え始め、体調も少しずつ戻ってきました。

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抗がん剤終わってもむくんでいた足↓

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2015年11月には第1回金沢マラソン、2016年3月には名古屋ウィメンズマラソン。

50歳から走り始め、55歳でマラソンデビュー。

今シーズン(2016年10月)初マラソンは富山マラソン。

言い訳になりますが、このオフシーズンは旅行あり、仕事あり、家事忙しく、で練習が疎かになってしまいました。

還暦まであと2年、という今日この頃。

いつまで走れるかしらん、と思いながらも実は

未だに苦手なランニングの練習を続けているこのごろです。

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こどもの頃の苦手意識は未だに続いており、練習や試合前にはいつも不安でドキドキします。

こんな状態ですが、人生半ばを過ぎて始めたマラソン。

いくつになっても「始めることができる新しいことはある」、

ということをお伝えしたくて書いてみました。

何でもいいから「これまでやってこなかったこと」

そして、「楽しく取り組めて」、「教えてくれる先達(もちろん年下OK)がいること」を始めてみませんか?

時系列まとめ

  • 2008年 50歳 ランニングを始める
  • 2011年 52歳 震災、勝間塾入塾「うな勝ランニングクラブ」に入る
  • 2012年 53歳 初駅伝「谷川真理駅伝」に出場5キロ走る
  • 2013年 55歳 東京マラソン当選
  • 2014年 56歳 初マラソン出場、霞ヶ浦マラソン出走 乳がん発覚 東京マラソン当選 大阪マラソン出走
  • 2015年 57歳 抗がん剤治療しながら東京マラソン出場 金沢マラソン出走
  • 2016年 58歳 名古屋ウィメンズ出走 秋、富山マラソンに挑む

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この記事を書いた人

大野 清美

大野 清美

1958年大阪生まれ、大阪育ち。子どもの頃の夢だった「留学したい」を37歳で実現。3児を育てながら米国NY州コロンビア大学国際関係学大学院を卒業しました。帰国後は英語を使って仕事を続け、今後は「自分の人生を変えてきた」英語を教えたい!と修行中です。
趣味はマラソンとモーターバイクでのツーリング(愛車Honda VTR)です。
(2019年4月記)