実家をついに「空っぽ」にしました。
2019年に母が施設に入ってから6年もかかりましたが、なんとかやり遂げたので振り返りたいと思います。
本稿は長いので、3部に分けて書きます。
2棟のビル
実家は関西の商業地区に3階建のビルを2棟保有していました。1棟は一方通行4車線の大きな道路に面していて、もう1棟は3軒隣で、角地の木造建物を表通りからやや狭い道路に入ってすぐの建物です。もともと所有していた土地は鍵型に繋がっていたのですが、お金に困って隣家に一部売ってしまったため、2筆の土地に別れてしまったのです。2棟のビルの間の距離は、約15メートルほどでしょうか。表通りに面したビルではかつて両親が商売を営み、狭い道に面したもう1棟は賃貸ビルにしていました。表通りのビルは、父が亡くなってからは母が1人で住んでいました。父は1992年に63歳で亡くなり、母はその時58歳でした。
父が亡くなって、それまで商売と家事と体の弱い父の看病に明け暮れていた母はやっと自由を獲得しました。幸い、別棟の賃貸料、それに加えて別の場所にも貸し家をもっていたため、一等地にある、目抜き通りに面した3階建のビル(本邸)に、高い固定資産税を払いながらも一人暮らしで生活に困らない晩年をすごすことができました。
どんどん増え続けるモノ
父が亡くなってからの母はカラオケ、民謡、フォークダンス、卓球などたくさんの趣味を持ち、それまでとは真逆の社交生活。3階建のビルは、ワンフロアが60平米。スペースが広いうえに昭和の人。何一つ「捨てる」という作業をしないまま、さまざまなものを「買う」生活に入りました。
60代、70代前半の母は、先に述べたような趣味三昧の生活。耳が悪くなって引きこもりがちになる80代まで、生き生きと活動していました。不動産収入があり、元気だったため、趣味関係の道具はどんどん増えていきました。カラオケセット、カセットテープ、フォークダンス用のフリルいっぱいのドレス、カラオケの発表会に着る派手なドレス。一階のガレージには友達と遊べるように、と卓球台まで購入しました。そして、極め付けは着物。お茶やお花をやっているならまだしも、ほとんど着る機会もないのに着物好き。女の孫が3人いるから「買っておいて無駄にはならない」という思い込みが免罪符となり、デパートの着物売り場を徘徊するという娯楽を楽しんでいました。次女の成人式には総絞りの着物、最高級のバッグも草履も用意してくれました。そして、晩年の集大成が「大島紬」。母は、「憧れ」を次々と実現していったのです(しつけ糸がついたまま、一度も着ることはありませんでしたが)。
断捨離第一弾とその後
母がまだ70代だった頃に一度、1階のガレージ兼倉庫にあった「祖父母」の家財道具である箪笥や布団などと、父が晩年に趣味で購入したビリヤード台、2階で営んでいたときに使っていた商売道具(電動ミシンや旗、カップ・トロフィー類、製造販売していたスクリーン印刷に使っていた道具諸々)を業者さんに引き取ってもらったことがあります。それが実家の断捨離第一弾でした。商売をやめて10年以上、そのままにしておくのはよくない、と私が手配したのです。特にビリヤード台は、大きく、重いのでクレーン車を使って引き取ってもらいました。(母はその後、そのビリヤード台のあったスペースに卓球台を設置しました)
別邸は本邸よりも前に建ち、私たち家族は私が高校一年生から3年生まで別邸の3階に住んでいました(かなり古い建物です)。私が大学生のときに本邸のビルが完成し、両親は本邸に引っ越したのですが、その際、別邸の3階には私が残していったベッドや本棚、古い食卓など、使わなくなったものが残置されており、それらをやはり業者さんに依頼して空っぽにしてもらいました。どちらの作業もだいたい40万円ぐらいかかりました。
その後、後期高齢者になった母は、もう片付けする気力もなく、だんだん日常生活を送るだけで精一杯になってきました。母が元気だったころはそれほど実家には戻りませんでしたが、後期高齢者になる頃から施設に入るまで、私は毎月大阪に通いました。その度に「もう少し捨てたら?」「捨てんといて」の喧嘩を繰り返していました。とにかく、「使わないけれどとっておきたい」ものでどんどん家の中が狭くなってきていたのです。とにかく、スペースがあればあるだけ、埋めていく、という感じでした。