37歳でコロンビア大学大学院にママ留学した私がその後の人生で得たものとは?

37歳で3人のこども(8歳、5歳、3歳の娘たち)を育てながら、

こどもの頃からの憧れであった「留学」を実現しました。

なぜ、頑張れたのか。

そして卒業した先に何があったか、書いてみます。

1.  15歳のこころざし

中学校に入って英語の学習を始めて

自分は大学に入ったら留学するのだ、と決意しました。

「留学するには」みたいな本を一冊買ってきて

繰り返し読むこどもでした。

家は豊かではなく、家族経営の商店を営む両親のもと、

勉強だけが「ここから抜け出す道だ」と考えていました。

父はお酒こそ飲まないけれど、

「瞬間湯沸かし器」(今でもそんな言葉通じますか?)と言われる

家庭内暴力のひとでした。

私にだけは優しかったけど、両親の喧嘩(いつもお金のことでした)が始まると

3歳上の姉と夜中にびくびくしながら喧嘩を仲裁するために

いつ止めにはいるか、タイミングをはかるような日々。

(写真はイメージです…が、こんな程度ではなかったです。壮絶…でした)

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父がいよいよ激高して大声になり、モノを投げる音が聞こえ始めると

姉は「きよみはお父ちゃんを止めや。私はおかあちゃんを守るからな」と、

2人で子供部屋からそれっとばかりに同時に飛び出し、

母に対して怒鳴りながら殴る蹴るを繰り返す父に泣いてしがみつき、

「お父ちゃん止めてーなー!」と叫ぶ。

姉はおかあちゃんを守るために母の盾になる、

そんなことが夜中に繰り返される家庭でした。

そんなおかあちゃんが何故離婚して比較的裕福な

和歌山の実家に戻らなかったのか。

「出戻り」と言われることへの怖さ、そして、

自立できる何の技術ももたない女だったからです。

「女も自分で稼げるようにならなあかんのや」とは

めそめそ泣くしかない母の後ろ姿を見て感じていました。

だからこそ、中学に入り習いはじめた英語を武器に留学し、

「世界で活躍する」ということが

自分の生きる道と決めていました。

何になるかはわからなかったけど、とりあえずは学歴があれば何とかなる、

そんなことを思う日々でした。

ところが姉が高三、私が中三のときに、

朝、「バイトに行く」といって出かけた姉が

昼には遺体となって病院にいた、という事態が起きました。

「心筋梗塞」

前兆はなく、バイト先で倒れて救急車で運ばれ、

病院についたときには死んでいた、そうです。

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17歳の体を解剖するのは忍びなく、父はその死の原因を追求できませんでした。

その後私の身におこったことは

突然の過保護な日々。

それまではほったらかしの次女の立場。

自由な生活だったのが突然の監視生活。

「私たちにはこの子しか残ってないんや」という親の気持ちがひしひし伝わり、

息苦しい日々でした。

親戚に「きよみちゃんは養子とりやなあ」と言われるようになりました。

はあ?私が誰かとお見合いをして

店を継いでくれるひとと一生ここで暮らす???

…世界に羽ばたくべき私の羽根は根元からもぎ取られてしまった

そのように思い込まされた15歳でした。

姉の死は中三のときに起こったできごとでしたが

私は進学校に合格し、高校生となりました。

でも、家から出られない(養子をとらないといけない)、という思い込みで

勉強もやる気にならず、

いまや1人娘しかいない

両親をおいて自立して遠くに行く訳にはいかない、と

青春のひとときを閉塞感とともに生きていました。

2.  大学受験失敗・浪人

そんな状態で自分が世の中に「羽ばたく」イメージがまったく湧かず、

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勉強もいい加減、高校時代に頑張っていたことは

初心者で始めた「卓球」ぐらい、な日々でした。

そのくせ、プライドだけは高く、

高校受験の「成功例」が忘れられずに(あんまり勉強しなくても受かった)

予備校にも塾にも行かず

現役のときも一浪しても国立大学には受からず、

滑り止めに受けた私立大学にかろうじて合格しました。

「お前は失敗ばかりしている!!」

父には叱責されました。一浪しているから

「我が子なら当然国立大学に受かって当然」とでも思っていたようです。

受験勉強などしたことのない父に言われるのも心外ではありますが…

「とんびが鷹を生んだ」と親戚などに「自慢の娘」であった私が

大学受験などで失敗するのは許せなかったのでしょう。

大学など行ったこともない両親からすれば

どちらかというと自分たちの見栄のためには

「東京の女子大」のほうがよかったらしく、

親元を離れることにお許しがでました。

3.  大学、卒業、そして結婚

さて、長々話してきましたが、ここからが私の旅立ちの始まりです。

親元を離れ、のびのびと暮らし、留学などを決めていく同級生を見ているうちに

再び自分の「もぎ取られた羽根」が

生えてくることを感じるようになってきました。

要するに親は「家というより、お墓を守ってほしいんじゃない?」と

思えるようになってきて

「じゃあ、さっさと結婚してこどもを産んで親を安心させる」

のがいいんじゃないか、という作戦をたてました。

壮大なる計画(うまくいくとは限らないけど)、ですが(若気の至り?)

「さっさと結婚してさっさとこどもを成長させて

自分は中年留学をする」と、決心しました。

アメリカの大学はいくつになっても入れます。

それまでに自分が一番やりたいことを決めて、やる、と密かに決めました。

大学卒業後すぐに結婚。

通訳や翻訳の仕事をし、通訳ガイドの試験に合格するなど、

将来の留学のために英語力を鍛える日々が始まりました。

(写真はイメージです)

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最初のチャンスは結婚して3年後に訪れました。

夫に…

夫がハーバード大学の法科大学院に1年留学することになったのです。

当時自分は都立の研究所の臨床病理学者の秘書(論文を検索したり、校正したり…)

をして、アルバイトをする日々でした。

先を越されたことは悔しかったですが、

私は当時長女を妊娠していて、これを自分のための下見にしよう、と目論みました。

8か月のお腹で渡米しましたが、

病院探しも自分でし、また出産後はベビーシッターをお願いして

ハーバード大学のExtension school

(好きな科目がとれるオープン大学。宿題をきちんとこなし、

試験に合格すれば単位ももらえる)に通う日々を過ごしました。

帰国後は滞米経験と大学時代にとった英語教員資格をつかって

地方の中学校で「産休先生」をしました。

再びチャンスが訪れたのはこどもたちが小学校、保育園に通っていた頃。

私は3人の育児があり、育児協力を頼めない夫だったので

家でできる翻訳をし細々と稼ぐ日々でした。

当時まだ高価だったファックスを導入、誰よりも先んじてインターネットを

使い、海外のクライアントにネットで納入する、という仕事をしていました。

(先方にとっては夜の間に翻訳ができるのでとても便利だったと思います)

そうこうしているうちに、夫がニューヨークに3年間赴任することになりました。

こういうのを「セレンディピティ」(運をつかみとる能力)というのでしょうか?

「チャンス!」とばかりに今度こそ自分の留学準備を始めました。

TOEFLを受け、

英語情報誌”English Journal”を出版していたアルクの「留学支援サービス」

を受け、カウンセラーに相談、どんな大学があるかなど情報収集に務めました。

4.  渡米・入学準備

渡米後1年は準備に費やしました。

まずこどもたちが現地校で落ち着くまで。こども優先です。

日本人妻の会、現地校のPTA、家族の誰もが異国の地に

慣れるのに必死でした。

その頃のこどもたちと夫↓

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大学院の入試に必要な書類は

1.  大学の卒業証明書(日本にいる間にとっておきました)

卒業後14年も経つのに、証明書を出してくれる母校とはありがたいものです。

2.  様式に書き込む履歴書

3.  小論文

大学は2校にしぼり、なぜコロンビア大学で、

あるいはNYU(ニューヨーク大学)で学びたいか、を

自分の経験を踏まえ、書きました。そして、

4. 推薦状3通(2人はアカデミアの人である必要あり。つまり大学教授)

卒業後、ほぼフリーランスの仕事をしていたのでこれが大変でした。

大学の先生はいいとして、

フリーなので、誰に書いてもらうか…考えたあげく、

翻訳をさせていただいている出版社の編集長にお願いしました。

ジャーナリストはアメリカでは地位が高いのです。

幸い編集長は快く引き受けてくださいました。

ゼミの先生からは、「卒論なんだったっけ?」と

質問を受けました。そりゃーそうですよねー。卒業後14年もたって

大学院にいきたいから推薦状を書いて欲しいなんて、言ってくる卒業生は

かなり珍しい(普通、もっと若いうちに留学しますよね)。

でも、恩師はありがたいものです。きちんと書いてくれました。

小論文は、アルクの留学支援サービスを利用しました。

アルクは、当時大学の先輩も就職していて、

英語学習の世界では先駆者のような会社です。

(現在のアルクの留学支援サービス(留学センター)は

小中高の留学にターゲットをおいているようですね)

日本にいる間に小論文対策サービスを受ける契約をしておきました。

アメリカについてから、こどもが幼稚園や小学校に行っている間に

論文を書き、ファックスで日本に送り、添削して返信してもらうのです。

これが本当によかった!

初めての小論文、添削指導がなければ絶対にどうにもならなかったと思います。

5.  合格・通学!!

秋から冬にかけての準備。春になってNYUからは合格通知。

コロンビアからは「補欠通知」が届きました。

「後少ししたら繰り上がりできるかどうか連絡します」と。

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そしてしばらくしてコロンビア大学からも合格通知が届きました。

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当時はマンハッタンの郊外にあるScarsdaleというところに住んでいたので

通学は電車と地下鉄でどちらに行っても一時間以上かかります。

でも、私は「車で」通学することができるなら、コロンビア大学に

行きたかった。夫は「マンハッタンに駐車するなんて、君には無理だよ。

電車と地下鉄ならNYUがいいよ」と

言いましたが、どうしてもコロンビアに行きたかった私は

ある日(こどもたちが幼稚園・学校に行っている間に)

地図を調べ(カーナビなどない時代です)1人でフリーウェイに乗り、

当時まだあまり安全でなかったハーレム地域

(当時はまだ少し危ない地域だったかなあ)の近くにあるコロンビア大学に

車で向かいました。そして、大学の近くに有料の屋内駐車場を見つけました。

路上駐車をしないですみ、しかもチップを渡せばちゃんと

駐車スペースに駐車までしてくれる管理人がいます。

大学の2年間、縦列駐車すらできない私が

マンハッタンに車で通い続けることが

できたのはこの屋内駐車場のおかげです。

これで通学問題を解決。

次はベビーシッターですが、これも渡米後の準備期間でこどもたちの学童と

車でこどもたちを送り迎えしてくれる日本人のシッターさんを見つけておきました。

お金ですが、授業料は半年ごとに1万ドル、1年半で3万ドル、最後の半年は授業があまり

なかったので単位のみ。

ベビーシッター代は、各期2500ドル、最終的にかかりました。

全部で400万円ぐらいでしょうか…

それまでにアルバイトで貯めたお金はすべて使い切りました、そして

足りない分は夫に出してもらいました(感謝です)

大きなハードルとなっていた卒業に必要なインターン(就活も大変です!)もウルトララッキーで

経験することができました。(この話は別稿で書きます)。

写真は、インターンをした後にもらった当時のボスが書いてくれた推薦状。

わざわざ家まで郵便で数通送ってくれました。

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そして2年。こどもの頃の夢がかない、卒業することができたのです。

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6.  卒業・その後

何を勉強していたのか、まったく書いていませんでしたが、

自分は「国連」で働きたかったのです。

その頃、日本人で初めて国連機関の長(UNHCR:国連難民高等弁務官事務所)

になった「緒方貞子」さんに憧れ、

国際社会の問題、紛争、世界の貧困…冷戦後の世界が新しい価値観をもとめて激動し、

メディアによって世界各地で戦争や貧困の犠牲となっている女性、こどもたちの映像が

毎日のように映し出されていた時代。

何かしたかった。自分に何ができるか、とことん考えてみたかった…

という訳で「国際関係学」を学びました。

緒方貞子
緒方貞子さんは、日本人で初めての国連難民高等弁務官として
1991年から2000年まで10年間の任期を務めました。

緒方さんは1927年東京都に生まれ、幼少期をアメリカ、中国、
香港などで過ごしました。聖心女子大学卒業後アメリカに留学し、
ジョージタウン大学で国際関係論修士号を、カリフォルニア大学
バークレー校で政治学博士号を取得。その後、74年に
国際キリスト教大学准教授、80年に上智大学教授に就任。
76年には日本人女性として初の国連公使となり、その後
91年には日本人として、また女性として初の
国連難民高等弁務官に就任しました。

緒方さんが高等弁務官に就任した1991年は
東西対立構造がもたらした冷戦が終わりを告げ、
民族、宗教などに起因する地域的な紛争が
増え続けていた時期でした。
「なんみん応援隊」より

さて、ここまでして、卒業後、自分は憧れであった「緒方貞子」さんのように

なれたか、というとそう簡単ではありませんでした。

日本ではまだまだ中途採用だとなかなかいい条件では就職できません。

加えて、帰国した途端、こどもたちはいわゆる「帰国子女」

(小学校6年生、3年生、1年生で帰国)

彼らの「逆カルチャーショック」についてもいろいろ対応する必要がありました。

まずはこどもたちが落ち着くまで…

とりあえずは家でできる翻訳、そして少したってパート扱いで

国会議員秘書(大学の先輩が議員になっていて、卒業大学で紹介されました)、

区の非常勤職員など、できることから始め、英語力が衰えないように

通訳学校に通いつつ、毎週月曜日には英字新聞ジャパンタイムズを

買ってきてClassified Add(求人広告)を見る日々。

いくつも応募していくうちに、アメリカ大使館に秘書職で採用されるも、

前秘書との引き継ぎ作業中に

何か理由がわからないまま、Conflict of Interest (利益相反)で

採用取り消しになってしまったことも。

その時は108人の応募者中一番の成績だったと、

あとで採用担当者に聞かされました。

その後、国際NGO(奉仕団体)にフルタイムで就職しました。

そして、今の職場(基礎科学の研究所)に転職。

すでに40歳をすぎ、日本企業だと身分的には派遣か

パートでしか採用されなかったと思いますが、

研究所はそもそも任期制職員が多いため、

実力さえあればあまり年齢は問題にならないところでした。

現在は外国人研究者を含む研究者の人材育成事業を運営しています。

メールは主に英語。外国人とのやりとりも多いです。

世界とつながり、若手研究者の育成に関わる…

夢のある仕事をさせていただいています。

7.  私が得たものとは?

もっと若い頃に留学をしていたら、今はまったく違った人生を送っていたでしょう。

でも、人生に「もしも」はありません。

長い間、実に四半世紀、25年かかったけれど、

一度たりとも夢をあきらめることはありませんでした。

その夢を叶えるために、「今、ここでできること」をやり続けていました。

そして、それを果たし、いま、振り返って自分が

「留学したことによって得たこと」は、と問われれば

「夢を信じていれば、そしてそれを忘れなければ」

「夢は叶う」、という確信です。

キャリアやお金、とか、すごい地位?とかではなく、

「自分を信じる力」でした。

とにかく、いつかは夢が叶う、と思い続けて英語でもなんでも続けていたおかげで

50歳を越えてから受けたTOEICで990点、英検1級に合格しました。

(英検1級は、大学卒業時には落ちていました…

私は大学を卒業してから仕事と夢のために

本当に真剣に英語を勉強したのです)

そうそう、結婚した24歳のときからボストンに行く27歳まで、

「1年間で1000時間英語を聞くことで聞く耳をつくる」、という

アルクの「ヒアリングマラソン」も3年続けました。

この学習のおかげで最初にハーバードに夫が留学したときも

誰の助けも借りずに自分でお産をする病院を見つけたと言っても

過言ではありません。

TOEICも、2007年に初めて受検したときに980点。

その時もヒアリングはすでに満点をとっていました。

英検でも、ヒアリングにはまったく問題がありませんでした。

今は「聞くだけ」のような楽な教材もあるようですが、

アルクの「ヒアリングマラソン」はしっかり「確認テスト」もあるし、

教材も多様な内容でしかもレベルが高い。

この教材は、真剣に英語を勉強しようと思う人は、とにかくまず1年、

頑張ってみるべき教材だと思います。

特に若い頃に最低1年頑張るとしっかり英語耳ができるので

(私は24歳から最初の渡米までの間の3年間、

アルクのヒアリングマラソンのみで英語の勉強をしました。

アルバイトもあったので会話学校のようなところには通いませんでした)

その後、ヒアリングについて悩むことはなくなると思います。

こどもの頃、親の夫婦喧嘩の怒鳴り声に震えていた小学生の私は、

最終的に憧れの人(緒方貞子さん)にはあまり近づけなかったけれど

緒方さんを目指していたら本当に留学の夢が叶いました…

ヒアリングマラソンは、調べたら1982年開講で、

何と私は開講当初の通信教育生でした!!

そして、今も続いている優良プログラムです。

↓詳しく知りたい方はこちらをクリックしてみてくださいね↓


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この記事を書いた人

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大野 清美

1958年大阪生まれ、大阪育ち。子どもの頃の夢だった「留学したい」を37歳で実現。3児を育てながら米国NY州コロンビア大学国際関係学大学院を卒業しました。帰国後は英語を使って仕事を続け、今後は「自分の人生を変えてきた」英語を教えたい!と修行中です。
趣味はマラソンとモーターバイクでのツーリング(愛車Honda VTR)です。
(2019年4月記)