義父が亡くなった(2023年11月20日)(1)

警察から?

義母の91歳の誕生日、2023年11月20日、夕方、

家族のLINEに夫から不思議なメッセージ。

警察と連絡取り合っている、とか。

あぁ、これは高知の義父母に関するなんらかのトラブルだな、と。

義母はもう10年以上アルツハイマーで寝たきりだし、

今更警察のお世話になることもないから、義父か。

何か事件でも起こしたのかな、と。

まあ、帰宅して話を聞こう。

義父

義父もすでに要介護2あるいは3になっており、

特に歩くことが困難。自宅で1人、暮らしている。

オムツもはいているし、食事も作れない。

家から自力で出ることはできない。

夫が施設に入ることを勧めたが、ずっと拒否してきた。

大好きなテレビを一日中視て、好きな時間に食事して、

好きな時間に寝起きして、甘いコーヒー牛乳を飲む生活。

それを手放すことを最後まで貫いたのだ。

在宅要介護状態だったので、ヘルパーさんや、

リハビリ訓練士さん、お弁当の宅配の方など、

ウィークデーは毎日誰かが訪問していた。

義母との面会

ちょうど1週間前、11月12日に義母に(肝臓がんの末期症状である)

黄疸が出ているということで夫は高知に飛び、

13日月曜日、義父を連れて義母を見舞った。

それが義父母の最後の面会となった。

夫が帰ってきた時に語った話によると、義父は、

義母をずっと「探していた」そうだ。「いや、僕がちょっと

きついことを言ったら、千枝子は家を出ていってしまったんだ。

それでずっと探していたんだけど、そうか、病院にいたのか」と、言ったそうだ。

「親父、お袋を病院に入れたのは、親父でしょ?

毎月、病院の支払いに行ってたよね」

義父は、面会に行く前、髪も整え、

こざっぱりと身なりを整えたそうだ。

そして、面会では「千枝子、探していたんだよ。

ごめんな、きついこと言って。会えてよかった」と、

語りかけていたそうだ。長い間会わないうちに父の中で

物語が出来上がっていたのだろうか。

義父の死の経緯

20日月曜日の夕方、宅配弁当の配達係が父を訪ねた。

いつも、父が寝ている部屋の、

庭に面しているサッシを開けようとして、父が倒れているのを発見。

警察と救急車を呼んでくれて、父は収容された。

父の家の隣家の家人が警察や救急車が来ていた異変に気づき、

夫の携帯に電話があったのだ。

その隣家とは、以前、義父の家の庭の植木がはみ出ているとの苦情を受け、

夫が剪定などの手配をして以来の付き合いで、気にかけてくれていたようだ。

義父は高知医大病院に運ばれたそうだが、救急車に乗せてもらう時には

すでに心肺停止だったとか。その後、病院で死亡が確認された。

その報告を受けた夫は、必要な各方面に連絡。

翌日の飛行機の手配をし、11時ごろ寝入った。

夜中、不審死ではあったので警察の現場検証があるとの電話。

高知の親戚に立会いを依頼、また、病院から「浴衣」を着せたいので、

料金かかるがいいか、との電話があった。

父の葬儀に向かう

翌21日朝、4時に起き、私はタクシーをアプリで依頼、

夫は5時に高知に向けて出発した。

私も早く合流した方がいいのだが、ミーティングがいくつかあり、

また、仕事後の練習もしたかったので(できるのか?)

一応、ランニングウェアを持って出社した。

いくつかのミーティングの合間に、

夫から通夜、告別式の日程調整の電話が入る。

いくつかのイベントと、伝票処理などの仕事の片付けをしたが、

結局定時には終わらず、また、喪服等の準備もできていないので

練習は諦め、連絡をする。他にもいくつか、予定のキャンセル。航空券の手配をする。

最近は航空券も高額になってきており、夫は介護帰省パスを持っているが、

それを使っても先週の支払いは往復7万円超。

私は、営々とマイルを貯めている。

今回は往復マイルで確保した(のちに変更することになり、

片道分は、捨ててしまったけれど、まあ、仕方ない)。

水曜日、夫に合流するために高知に向かう。(続く)

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この記事を書いた人

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大野 清美

1958年大阪生まれ、大阪育ち。子どもの頃の夢だった「留学したい」を37歳で実現。3児を育てながら米国NY州コロンビア大学国際関係学大学院を卒業しました。帰国後は英語を使って仕事を続け、今後は「自分の人生を変えてきた」英語を教えたい!と修行中です。
趣味はマラソンとモーターバイクでのツーリング(愛車Honda VTR)です。
(2019年4月記)