母の転院…ができなかった件

アイキャッチ画像は、朝の品川駅でのひとときの安らぎで楽しんだ珈琲です。

大変な1日の始まりでした

ことのはじまり

10月25日、携帯電話がかかった。

「今朝、嘔吐したこと、また、糖尿病の数値もよくないので

入院していただくことにします」という施設の医師からの電話。

施設から、入院先を教えてもらい、

10月27日、母の病院を訪ねる。

病院の面会時間は平日2時から4時のみ。家族のみの面会が許されている。

医師の話では、「胆管内乳糖粘液性腫瘍」で、

膵臓がんではない、ということであった。

見舞ったとき、母は寝ていたが、私に気づいて起きた。

いろいろ(私から)話しかけてみたけれど、入れ歯を外しているので

母が理解しているかどうか、また、母が何を喋っているのか

まったくわからない。

とりあえず、顔をみて、帰る。

2回目の面会

11月6日は5日に実施された東北みやぎ復興マラソンを走り終え、

朝、仙台から東京、東京から大阪への新幹線乗り継ぎ。

その日は起きていて、あまり会話は成立しないものの、

顔をみることができた。

翌週、11月13日、母89歳の誕生日。病院より電話あり、

抗生剤をやめると「数値が悪くなる」ため、

投与を延長するとの連絡があった。

うーん、リハビリは始まった(嚥下、歩行など)ようだが、退院の

見込みは立たなくなってしまった。

3度目の面会

11月17日、介護休暇をとって、3度目の病院。

医師が、転院させる、という。

現在入っている病院は、急性期患者の受け入れ病院なので、

慢性期患者を受け入れる病院へと移るらしい。

抗生剤を止めると、どうしても数値が上がってしまうので、退院

できないのだ。

私が訪問すると、母は車椅子に乗っていた。

車椅子から落ちないように、胸のあたりにベルトをさせられている。

トイレに行きたい、とかいろいろ要求もする。

車椅子の座席の埃を自分が座る前にパタパタとはたく、など

「前向きな」活動も見られる。また、嘔吐したときに汚れた靴を、

ティッシュで拭いて綺麗にしようとする。

(汚れているのが嫌なのね。ごめん、今度靴持ってくるから)

しかし、血液検査の結果はよくないらしい。

退院の見込みは立たない。施設に連絡し、通常、このように施設生活が

できなくなった場合には2ヶ月で退所のところを

3ヶ月に延長してもらう。

やっぱり、自分でご飯食べて、テレビ見て、

ときには工作などをして、という生活がいいよね、お母さん。

がんばれ!

転院

11月28日、医師より電話あり。

「ゆるやかに炎症反応はよくなっている、しかし、すぐに

退院できる状態ではない。生活は車椅子中心、

熱は出ていない、食事量は増えている」とのことで

系列の別病院に転院が決まったという。

少し認知症が進んでいるような話もあった。

(そうなると、もとの施設がどの程度までうけいれてくれるか…)

転院日は11月30日。

転院、一転、元の病院に

11月30日 患者移送車の手配は1時10分。

それに合わせ、朝早く(7時半)家を出た。

新幹線で品川から新大阪、新大阪から梅田。

そして病院へ。

品川でお弁当を買って11時ちょっと前に食べた。

まあ、駅弁は電車旅の楽しみだし、降りてから食堂探すのは

大変。いい時間の使い方だね。

昼には大阪に着く。

大阪駅から病院まで歩いて20分ぐらいなのだが、

いつも迷う。その上、Googleマップが間違った場所を教えてくれるので

(地下道歩いているうちに、おかしくなったのかな?)

さんざん迷って、道ゆく人、何人にも聞いてやっと病院到着。

入院費の支払いを済ませ、待合室で車の準備を待つ。

母はストレッチャーに乗せられていた。

私を一瞬認めたのかな?でもすぐに寝てしまった。

それが前兆だった…

CRP39, 白血球24,000で「受け入れ不可」

患者移送車で1時間ほど乗っていたら

転院先の病院に着いた。患者が乗っているとはいえ、結構揺れるものだ。

母は、そのままストレッチャーで救急対応室に運ばれる。

私は入院手続き。

その後、母のところに行くと、

「熱があります」と看護師さんがいう。

37.7度。移送車に乗るときは、37.1度だったそうだ。

コロナ検査が行われているらしい。

(ずっと病院入ってたから移りようがないけど…)

医師が来て、CRP値が高く(39)、白血球も24,000あって、

炎症反応が起きている、これではうちの病院では

対応できない、と話す。

「話が違う」と元の病院の紹介状を検める。

(私も、「話が違う」…と)

看護師さんの話によると、下痢もしていたようで、おむつを交換したそうだ。

医師は、CD腸炎を疑っている。

1ヶ月以上抗生剤を続けた結果、特定の菌は抑えられたけれど、

別の菌が蔓延った。つまり、菌の「政権交代」があったため、

新しい菌に対して炎症反応がおこっているらしい。

もとの病院に戻る手続きが始められた。

CTも準備していたらしいが、「あちらの病院のほうが

高性能ですぐに見られるCTがあるので、こちらはキャンセルします」との

こと。

しばらくして、救急車(帰りは救急車になった)が到着。

オムツを交換したり、の経費が発生したので、会計があり、

それをずいぶん待たされて、4時過ぎに出発。

サイレンを鳴らして搬送してくれたため、戻りは早かった。

母は別途処置室に運ばれ、私は家族待合室に。

新幹線は5時に予約していたけれど、ハッと気づいてぎりぎりに

7時に変更、さらに、かなり待たされるような感じだったのでもう一度

8時に変更した。

もう治す手段はない

あまりに待たされるので、ちょっとクレイマーになって

「今日、東京に戻らないといけないので、何を待っているのか、

あとどれぐらい待てばいいか教えてほしい」と、受付に談判。

どうやらCTをとっているらしい。

もう少ししたら呼びますから、と看護師さんが声をかけてくれる。

6時近くになって医師と話す。

CT画像を私にも見せながら、

IPMN(膵管内乳糖粘液生腫瘍)が、医師の予想を超えて肥大していた、

これは、予想できなかった、と。

私のほうでは、「手術はしない」、という選択をしているので、

もう、できることがない、という。

延命措置は母も望んでいなかったので、再度伝える。

とにかく、痛い、苦しいはないようにしてほしい。

医師は余命についてははっきり言わなかったけれど、おそらく

このまま枯れ木のように…なのかなと思った。

とりあえず、もう私に今、できることはない。

話を終えて病院を出た。新幹線に乗ったのは7時15分。

夜、銀座で予定していた高校の同窓会、間に合わなかったな。

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この記事を書いた人

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大野 清美

1958年大阪生まれ、大阪育ち。子どもの頃の夢だった「留学したい」を37歳で実現。3児を育てながら米国NY州コロンビア大学国際関係学大学院を卒業しました。帰国後は英語を使って仕事を続け、今後は「自分の人生を変えてきた」英語を教えたい!と修行中です。
趣味はマラソンとモーターバイクでのツーリング(愛車Honda VTR)です。
(2019年4月記)