DV家庭に育って、今思うこと

家庭の恥なので、書くことはためらわれるけれど、

いつの時代も同じようなことで苦しんでいる、あるいは

悩んでいる女性(あるいは男性)、そして子どもがいて、

人生を投げそうになっているのではないかと想像することがあります。

「なりたい自分があれば、そして夢をあきらめなければ

きっといいことあるよ」と伝えたくて、

とても微妙な話題ではあるけれど、自分の子ども時代について書きます。

1. ケンカの仲裁タイミングを測っていた小学生時代

私が小学校の頃、両親はよく喧嘩をしてい ました。

お金がなかったからです。

祖父が作った借金を父が肩代わりしていた、ということでした。

当時住んでいた家は、今はビルになっていますが、

私が子供の頃は、雨が降るとバケツや洗面器が必要な家でした。

2階建ての家の1階は店舗と台所、

トイレ部屋(普通の部屋をカーテンで仕切って

部屋の角に水洗トイレを作った)、

2階には8畳の両親の部屋、

4畳半のわたしと姉の部屋(カーテンで二つに仕切っていました)

がありました。

両親の部屋と私たちこども(姉と私)部屋の間には

2メートルほどの廊下がありました。

夫婦喧嘩はたいてい夜中。

1.5メートルほどの廊下を隔てた両親の部屋から聞こえる父の声は

だんだん大きくなり、どなる声が聞こえてきます。

姉と私は「また始まった」と身構えます。

子ども部屋の入り口に(そういえば扉もなかったなあ)2人でよりそって

「いつ止めに入るか」のタイミングをはかります。

「きよみはお父ちゃんを止めや。私はお母ちゃんをまもるから」

と、姉の特権?で姉は「自分が楽なほう」をとります。

そして、いよいよ危ない、と判断するとそれっと二人で飛び出して

私は父に「やめてぇ」と泣き叫びながらしがみつき、

姉は母の盾となるのでした。

父は商業高校をでて祖父の商売を継ぎました。

祖父の商売がうまくいかず、

母の実家や親せきにお金を借りて自分の商売を始めました。

ノウハウなどなくても商売は始められるような、

まあ、のどかな時代だったのですね。

でも、あまり儲かりはしなかった。

なんとかやっていけていた程度。

あるいは売上金を踏み倒されたこともあったみたいです。

そんなこんなで、父はいつも「ストレス」の塊でした。

しょっちゅういろんな人にかみついて、

「なにぬかしてけつかんねん、あほんだら!」が口癖のような人。

で、夫婦喧嘩も一方的に殴る蹴る、

モノを投げる、暴れつくしたら

ぷい、と家をでていく。

一番危なかった時は、灯油缶のフタを開けて

油を家の床にばらまいたときでした。

本当に家が燃えるかと思いました。

油の匂いがきつくて後始末が大変だったなあ。

まあ、そんなこんなのハチャメチャな家でした。

2. それでも子どもは育つ

母は父と別れることなく、

ストレスの塊だった父は大病をして入退院を繰り返し、

姉が17歳で突然死し、父は少しずつ大人しく?なりました。

瞬間湯沸かし器だったことはあまり変わらなかったけれど、

病気で足を切断するなどして妻を蹴ることはできなくなりました。

「私を足蹴にしたからや」と時々母は言っていましたが。

それでも末っ子の私だけは両親に大事にされ、

高校・大学に進学し、結婚して世の中の男性は

「普通、そうでない」ことを知りました。

結婚してから知り合った人が

「自分のお父さんも暴力振るうひとだったけど

夫はそういうことしないから、幸せだわー」と言うのを聞いて

ああ、同じように感じる人がいるのね、同じような境遇だったのね。

と、暴力のない家庭であることが

あらためてありがたかったです。

3. 夢を忘れるな

そんな子供時代だったので、

いえ、そんな子供時代だったからこそ

私は「大きくなったらこの家を出る。留学して、世界に羽ばたく」と

心に決めていました。

姉が突然死して、それまで放任だった私に対し、両親は突然過保護になり、

私も一旦は「この親から逃れられない」と思い込んだりしたけれど

あれほど暴君だった父が私の結婚には反対せず、私はそういう形で

家を出たのです。

私が留学の夢を実現したのは

その決意をしてから四半世紀後。37歳の時でした。

夫のニューヨーク赴任のおかげです。

暴力を容認するつもりは全くないけれど、

生きていれば、そして自分がそこそこ頑張っていれば、今よりは

よりよい環境に身を置くことができる、という可能性がある。

家や親や環境のせいばかりにしないで、できることがある、と

信じてみるのもアリ、だと思うのです。

国によっては、本当に個人の力でどうにもならない状況があるけど

日本では、自分が人生を投げない限り、

なんとかできる可能性がある。

もちろん一般化できないけれど、

たぶん、他の資源のない国に比べて

「這い上がる余地はある」のではないかと。

DV家庭とか、DV親とか、DV夫とか、

私の母は「泣いて我慢するだけ」だったけど、

晩年には父もだいぶおとなしくなって

最後には妻に財産を残して亡くなった。

母は28年我慢して、その後30年父の残した財産で生活しています。

私だったら、そして今の時代だったら、やはり「逃げて」、

「ひきずらず」、そして「前に進む」のが正解だと思うけれど。

母のことはさておき、その子供だった私は、

両親がいつ離婚するか怖がりながら、

それでも人生をあきらめるには若すぎたので、

夢だけは持ち続けたのです。

今も暴れて母を蹴りつける父の姿、

その父に必死にしがみつく小学生の私の姿が

フラッシュバックすることはありますが、

夢をあきらめず、前をむいていれば

「自分の人生はよくなるのではないか」と

信じています。

もし、家庭のことで「前に進めない」と思っているかたがいれば、

「自分を一番大切にして」(それが誰も恨まずに幸せに生きる方法です)、

その環境から脱出してほしい、「逃げるが勝ち」です。

これが伝えたかったことです。

 

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この記事を書いた人

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大野 清美

1958年大阪生まれ、大阪育ち。子どもの頃の夢だった「留学したい」を37歳で実現。3児を育てながら米国NY州コロンビア大学国際関係学大学院を卒業しました。帰国後は英語を使って仕事を続け、今後は「自分の人生を変えてきた」英語を教えたい!と修行中です。
趣味はマラソンとモーターバイクでのツーリング(愛車Honda VTR)です。
(2019年4月記)