毎日が特別な日ー清美の1日遅れ日記(11) ベルリン5日目ベルリンマラソンコース試走3日目2022年9月7日(水)曇り

試走3日目

5時起き。

昨日は朝遅く(6時起き)まで寝ていたので、スタートが遅れ、

何もかもが遅くなってしまった。

今日は早めにスタートする。

なんといっても、まずは20キロ地点に行かないといけない。

20キロ地点はYorckstrasseというところ。

今日は間違えないで行くぞ。

今日のコースは、赤い線のところ。

ところどころわかりにくい場所があり、

また、30キロ地点は、スタート、終点のブランデンブルグ門から

一番遠い場所にある。戻るのも時間がかかりそうだな。

スタート駅は、ちょっと下町っぽい。

今日はGPSを忘れず起動。走り始める。

まずは、Goebenstrasseという道を西に。

3キロぐらいまでは予習した通り。順調。

Friedenau (フリーデナウ)というところで、いったん南に下がり、

斜めに北西に向かうところが難しい。曲がり角が

多いし、道が細かい。(本番ではちゃんとコースが案内されるだろうけれど、

道路の名前を確かめながらの1人走りはウロウロ走りだ)。

そこを通り過ぎるとまた順調に大きな道路に沿っていく。

8-9キロあたりは、かなり狭い道。両側に路上駐車の車が並んでいる。

本番はどうするんだろ?いや、これ本当にコースか?

地図を頼りに、「この通りのはず」という感じで走る。

今日のコースは、住宅街が多い。

きっと、本番では沿道からの応援が力になるのだろう。

10.5キロ付近でもちょっと道迷い。

でも、まあ、今日のゴールは大きな道に出るはずなので、

そこを目指せばなんとかなる。

かなり順調に12キロ。段々慣れてきたのかな。

問題はブランデンブルグ門までの帰りの電車だ。

市の中心からは、かなり離れている。

8時半ぐらいにランは終わったけれど、帰宅の路線が難しい。

まずはバスで、地下鉄の駅まで行く。

地下鉄に着くと「loop」と書いてある標識が。

とりあえずきた電車に飛び乗ったけど、心配になって一度降りてしまう。

loopという環状になった路線は初めて。ドイツ版環状線だ。

環状線があるのは、初めて知った。

間違えたと思い、慌てて降り、路線図をもう一度確認し、

後続列車に乗りなおす。

いやー、まだまだ交通網の把握は難しい。

電車には、自転車も乗る↓

結局電車を2つ乗り継いでアパートメントに戻る。

帰宅9時半。やはり10キロの走行のために、3時間かかるな。

帰宅しシャワーと洗濯。

10時すぎにアパートを出て、さあ、今日こそポツダムにむかうぞ。

ポツダムへの小旅行・必死の帰還

初めてベルリンから出るので切符を買う。

そして初めての検札。ドイツに来て、初めて検札があった。

ちゃんとvalidateしておいてよかった!

郊外へ行く電車は、赤。2階建て。大きい。

今日の目的地は、

サンスーシ宮殿とツェツィリーリエン宮殿の2か所。

「サンスーシ」とは、フランス語で「心配事がない」という意味である。

1747年、フレデリック大王は建築家クノーベルスドルフを起用して

ロココ様式の宮殿を建築した。大王は、果物好きで、見事な庭園には温室があり

さまざまな果物が植えられていたとか。

大きなお城が楽しみ。

その前に、

ガイドブックおすすめのCafe Heiderに。サラダとスターターのパンを頼むと、

それが大量で、料理を二つも頼んだことを後悔する。

こちらは、Cafe Heiderのすぐそばにある、ポツダムの「ブランデンブルグ門」

門の間をトラムが走る。その区間は、単線。

必死でサラダを食べたあとは、歩いて20分ほどかかるが、サンスーシ宮殿に向かう。

広大なサンスーシ公園にはこのような緑のゲートなどがあり、多くの緑に癒される。

噴水の向こうに大きなサンスーシ宮殿が見えてくる

東屋には「太陽」が輝く。

ツェツィーリエンホーフ宮殿

サンスーシ宮殿でゆっくりしたかったのだが、今回のベルリンでは、ここが目玉だった。

この宮殿で行われた重要な会談、つまりポツダム会談が開催されたのが、

ここなのだ。

この宮殿は、ドイツの皇位を継承していたフォーエンツォレルン家最後の

宮殿で、皇太子とその妻であるツェツィーリエのために建てられた。

1913年に建設が始まったが、第一次世界大戦で

皇太子一家は第一次世界大戦後、亡命先の

オランダから帰国したものの、第二次世界大戦で

ソ連から逃れるため1945年に南ドイツに逃れた。

そして、壊滅的な打撃を受けたベルリンには戦勝国が会議を

持てるような場がなく、郊外にあるこの城が使われることに

なった。警備上の安全が確保しやすいこと、郊外の高級住宅地を

参加国の宿舎として利用できることも大きな理由だった。

イギリス首相チャーチル、アメリカ大統領トルーマン、

ソ連の最高指導者スターリンが7月17日17時、

ソ連がこの会議のためにモスクワの工房で作らせた円卓を擁する

大会議室に集まった。

議題の中心になったのは敗戦国ドイツの戦後処理問題

だったが、公式問題ではなかったものの、

日本の降伏と新型爆弾の使用をめぐる問題だった。

すでに2月のヤルタ会談でソ連の対日参戦の密約が

交わされていたが、戦後のソ連の影響力を警戒したアメリカは

「原爆を持つことでソ連をけん制できる」と考えた。

会談が始まる前日16日、ニューメキシコ州で初の原爆実験が成功

している。

25日、トルーマンは、「8月3日以降、広島、小倉、新潟、長崎の

いずれかに最初の原爆を投下する」という米軍の命令書を

承認したといわれている。

26日に日本の無条件降伏を求める

「ポツダム宣言」を発した時、原爆に関する結論は

すでに出されていた、ということだ。

会談の最後の8月2日にポツダム協定はまとめられた。

(資料参考:中村真人「ベルリンガイドブック」学研プラス)

最後はアナログ勝負か?

今回の旅行で一番訪れたかった場所を、駆け足ではあったものの

観ることができてよかった。

さて、宮殿を出て、見学を終える頃、携帯が突然光る。

「携帯の電池残量が20%です」。

まずい!

まさに右も左もわからない土地。

ヒトもほとんど歩いていない。アナログの地図はない。

アプリのみが頼りだった。

しかも、現時点で、バス乗り場まで最低20分の歩き。

もう、ここはアナログだ!

電池が切れたときに備え、帰り道を手帳に書き写す。

とにかく、バス停まで行ければ。。。焦る。

速足で歩く。Googlemapをたよりに

何とか、バス停へ。電池はどんどん減っていく。

バスに乗るときに、他の乗客に「ポツダム駅方面ですか?」

と、確認。よく逆方向に乗ってしまうからだ。

そして…なんとか、ポツダム中央駅に着く。

ここからは、ベルリン中央駅へ。

最後はドタバタの小旅行だったけれど、歴史が作られた場所、

日本にとっては屈辱的な決断が下された場所だったけれど

二度と戦争をしないという日本のその後を決めた場所でもある。

行けてよかった。

一安心の晩ごはん

晩御飯は夫とイタリアン。うん、イタリアンはほとんどはずれがないな。

例によって、少し食べ過ぎ気味に食事を終える。

 

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この記事を書いた人

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大野 清美

1958年大阪生まれ、大阪育ち。子どもの頃の夢だった「留学したい」を37歳で実現。3児を育てながら米国NY州コロンビア大学国際関係学大学院を卒業しました。帰国後は英語を使って仕事を続け、今後は「自分の人生を変えてきた」英語を教えたい!と修行中です。
趣味はマラソンとモーターバイクでのツーリング(愛車Honda VTR)です。
(2019年4月記)