コロンビア大学の日々ー育児との両立のコツは授業の取り方と「走ること?」

コロンビア大学で3児(現地の小学校、幼稚園)を育てながら留学していた頃、

(夫もいましたが、育児協力はほとんど無理でした…)

どうやって大学院の勉強をのりきったか、

という話をします。古い記憶ですが…

1. 必須科目と学びたい科目、単位を埋める科目

私が入学したのはコロンビア大学のSIPAという大学院でした。

School of International and Public Affairs(コロンビア大学国際公共政策大学院)

ミクロ経済学、マクロ経済学、統計学、国際関係概論など、必須科目を一年目で

とり、あとは単位をうめて、そしてさらに学びたい科目をとる…

でも、ニューヨーク郊外に住んでこどもがいて圧倒的に時間が足りない自分は

とにかく「学校に行く回数を減らしつつ、単位をとる」ということが大事でした。

そしてできたのが最初の時間割。

もう20年以上昔のもの。

月水金と学校に行き、火木はまったく登校しません。

これは、

  1. 通学時間がもったいない(車通学)
  2. ベビーシッターさんの確保が大変なのでできるだけ来ていただく日を限る
  3. 火・木は予習復習に使う
  4. 火・木は家事(こどもたちの翌日のご飯作り)をしないといけない

などの理由からでした。

2. どんな暮らしだったか?ー1年目の前期試験までー

学期が始まる前に、自動車通勤のシミュレーションを何度か行いました。

本当に車で大学まで通えるかどうか、心配だったからです。

そして新学期。

車は一家に1台だったので毎日が「運転手」だったのですが

特に自分が学校に行く日は朝、

家族全員(夫、小学生2人、幼稚園1人)を車に乗せ、

まず駅に行って夫を降ろします。

次に小学校に行き、小学生の娘2人を降ろします。

そして末娘を幼稚園に連れて行き、

幼稚園の先生にこどもを託します。

そしてフリーウェイ(高速)にのり、マンハッタンに入る橋を渡り、

大学近くの出口で降りてハーレム地域を少し走り、民間の駐車場へ。

駐車場のスタッフにチップを渡して(縦列駐車とかできません!)車を

停めてもらい、大学に向かいます。

お昼ご飯はたいてい学校内の売店の「ベーグル、クリームチーズ、

コーヒー」ですませ、

授業のある教室を渡り歩きます。

正直、1日3コマの授業をとるとフラフラ(英語疲れする)です。

聞くだけでなく、質問までできるような語学力はそなわっていなかったので、

授業中は「お人形」です。

ただ、発言も評価対象になるので、なんとか食いつこうと必死でした。

授業が終わると駐車場に戻り、駐車料とチップを払い車を出してもらいます。

(いいお客さんだったみたい…)

そして、夜のフリーウェイを運転して帰ります。

帰宅するとベビーシッターさんにお礼をいってお支払いして…

そのうちに夫が駅に着くのでまた駅までお迎えに行きます。

学校に行く日はだいたいそんな感じ。

学校に行かない日は、その日の家事、

そして翌日のこどもたち(とシッターさん)のご飯作り、

スーパーでの買い物(ショッピングカートを押して通路を

「走る」!)、

こどもの学校の送り迎え以外はほとんど勉強時間でした。

課題読書の量、半端ない。多分、授業の前に全部読みおえたことはありません。

そんな生活が大学院一年目の「前期」でした。

そして、問題が「試験」

経済学(のちにノーベル賞をもらったスティグリッツのミクロ経済学のテキストを

使っており、日本語訳もありました)の試験は、ほとんど「英語の読解問題」。

というのは、内容はテキストを読んでいればわかるものだったので。

大変だったのは、take home exam(持ち帰り試験)。

課題が与えられて24時間以内に解答を教授室に持参する、というものです。

その冬は大雪が降り、一日家に閉じこめられ、教授に電話して数時間

提出を遅らせてもらったことがありました。

提出するとき、末っ子を車に乗せて行ったっけ。

おねえちゃんたちはお友達のお家で遊ばせてもらっていたかな。

3. 一年目後期、そして…

前期試験もなんとか無事終わり、

どうにかこうにか試験には全部合格し、単位がとれました。

次、1年目後期。時間割もかわり、今度は水曜日に3コマ。

でも、他の日は比較的ゆったりです。

2時に講義がおわると、幼稚園・学童のこどもたちを

自分で迎えにいくことができます。

相変わらずスーパーマーケットの通路は

カートを押しながら走っていましたが、

最初の学期に比べればましになってきました。

後期も無事おわり、なんとか試験は乗り越えましたが…

次なる難関が待ち受けていました。

4. 夢がかなったとき

コロンビア大学のSIPAでは、大学院2年目に入る前の夏休みは

「インターン」をすることが

卒業条件でした。

これだけは、本当に困りました。

学生生活でさえアップアップなのにインターンとなると、

もっとハードルが上がります。

まず、採用されないといけない。

一体、郊外に住む、外国人の、子どもがいて時間的制約のある学生を

どこが雇ってくれるでしょうか?しかもすでに38歳

(アメリカで年齢が問題になるかどうかは

わかりませんが)。

どうしようもなく、ほとんど諦めていました。

就職課にも免除してもらえるよう、交渉していました。

免除の理由は、

すでに日本において「就業経験があるため、必要ない」というところで

なんとか認めてもらおうとしていました。

一方、履歴書の書き方なども指導も受け、最後まで諦めない気持ちを残し、

当時は紙ベースだったpositions available(インターン募集)の

「残り物」(すでにほとんどの学生が

インターン先を決めていました)に片っ端から目を通し、

まだ空いているところに

履歴書とカバーレターを送り続ける、ということも続けていました。

履歴書等を送った中から面接に進んだものもありましたが、

全く採用には至りませんでした。

ところが、たったひとつ、「国連開発計画」の

ミヤンマー人担当者の方が電話をしてきて、

「いや、私は子どもがいて大変で…」と「しのごの」いうのを遮り、

「とにかく、一度来なさい!」と半ば強引に誘ってくださり、

面接、そして採用に至りました。

ニューヨークの国連本部!!!!

国連開発本部でインターン!!!!

なんという幸運でしょう?

子供の頃から抱いていた夢、一つは留学、

そしてもう一つは「国連で働くこと」

それがかなってしまったのです。

インターンの期間は子供の夏休み期間だったので短かったですが、

一生忘れ得ない経験となりました。

今でも子供のお迎えのために本部を飛び出し、

グランドセントラル駅*を

パンプスで駆け抜け、電車に飛び乗った過去の自分を

「ちょっと褒めてやりたい」と思うのです。

*国連本部はマンハッタン島のミッドタウン、イーストサイド(42nd st, 1st Ave) にあり、

車では通えなかったのでメトロノース鉄道を使い、

自宅のあるスカースデール駅から

グランドセントラル駅まで乗りました(約40分)。

駅から国連本部までは

走って10分ぐらいだったかな?

こどもたちは夏休みは市が経営する

サマーキャンプに3人そろって通っていたので、

朝は車でスクールバスまで送って行き送り出し、

自分は車を駅に駐車、

帰りは次女の学校友だちのお父さんが全員をピックアップしてくれて

私はそのお家にこどもたちをお迎えに行きました。

そして… インターンが終わって私を国連に招いてくれた上司は、

推薦状(次の就職のために)まで

書いて私を送り出してくれました。宝物です。

5. 二年目から卒業まで

相変わらず汚い手書きですが、なんと3ターム目には

とるべき授業数がかなり減っていたのです。

一年目にかなり詰め込んだので、

2年目は必修科目はほとんどありませんでした。

通学は週3日。月、火曜日は家で勉強。

忙しさは相変わらずでしたが、

末っ子が長女・次女と同じ小学校に入ったために

送り迎えが一挙に楽になりました。

そして、最終学期。

通学は週2日の月・火のみ。この頃には少し遊ぶ余裕もできて、

水曜日だったか木曜日の午前中は

テニスのプライベートレッスンをとっていました。(ニッコリ)

そして、どうにかこうにか卒業。

最終成績は下の写真のようにまあ、

悪くはない程度でした。

それにしてもB+が多いな…

6. まとめ

ドタバタで、学生生活を楽しめたかというと、

とてもそんな余裕はなかった、

もっともっと若いうちに(私が入学したのは37歳のとき)

行っていれば運命は変わっていたかも、と思うことも

なくはありません。

でも、とにかく全力だったし、これ以上のことはできなかった。

授業の取り方を工夫し、周りの多くの方々の協力を得て

なんとかやりきった、というのが実感です。

結局、思いを強くして、自分のベクトルをそこに向けていれば

なんとかなる、そして夢は叶う、と

思うのです。

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この記事を書いた人

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大野 清美

1958年大阪生まれ、大阪育ち。子どもの頃の夢だった「留学したい」を37歳で実現。3児を育てながら米国NY州コロンビア大学国際関係学大学院を卒業しました。帰国後は英語を使って仕事を続け、今後は「自分の人生を変えてきた」英語を教えたい!と修行中です。
趣味はマラソンとモーターバイクでのツーリング(愛車Honda VTR)です。
(2019年4月記)