淀川 寛平マラソン2018(間寛平マラソン)参加記ー還暦前自己ベスト更新ならず!暑さでKO!ゾンビの群に混じる

自己ベスト更新を狙って練習を重ねた今季(2017-2018シーズン)最後のフルマラソン。

結果は自己ベスト更新ならず、不本意ながら5時間4で終わりました。レースを振り返ります。

1. レース振り返り

淀川寛平マラソン

20183月4日 天候:気温最高21

コース:ほとんど日陰のない河川敷コース 舗装路、砂利、草地あり。

アップダウンは「アメマ坂」 往路19キロ過ぎ、復路33キロ手前、「ちゃ~坂」 往路20キロ手前、ちゃ~坂 復路32キロ過ぎ

の土手に上がり下りする3箇所のゆるい坂のみ。

普段なら川風が冷たい風との戦い、になるコースかと思います。

普段のスタート前は、ウィンドパーカー、ポケットに使い捨て懐炉、100円均一のレインコートを被り、

走り始めたら一つ一つ剥ぎ取っていく、という作業をしています。それでも、整列の待ち時間は永遠か、と思うくらい寒さで身体が固まります。

ところが、今回は待っている時間が快適、なぐらいの高気温が朝から。

オープニングのMCの皆さんの盛り上げも、普段なら「こっち寒いねん、はよ終わらんかい(何で大阪弁?」ぐらいな気持ち?で聞いていますが、

地元大阪の間寛平さん、そして吉本芸人のみなさんの盛り上げに「イエーイ」とノるぐらい身体は楽でした。

 

スタート〜12キロ

スタートの号砲が鳴り、河川敷のコンクリート道を走り始めます。みんな先に先にと急ぐ中、最初から飛ばすのは危険、とゆっくりスタート。

それでも、すでに身体が温まっていたのでついついオーバーペースになっていました。

今回、キロ615で刻んで行けば確実に自己ベストを狙えるはず

ところが、周りにどんどん抜かれながらも、自分もオーバーペース気味。

なんと5分台で走り続けています。ところどころ5分44秒という自分としては驚異的なスピードで。

でも、ここでこれまでの練習を過信しました。あれだけ走り込んだのだから前半このまま行けるところまで行って、

後半6分半ぐらいに落としても大丈夫、と不用意に思い込み、そのまま走り続けたのです。

12キロから20キロ

給水はほぼ5キロごと。この天候だともっと頻繁にあった方がいいのですが、急に設置などできるはずもなく、給水と給水の間がすごく長く感じました。

周りが暑さでペースダウンしていく中、自分もかなり体温が上がってきているのがわかります。

汗をかいているのでランパンのポケットに入れた塩飴を2粒口に入れました。

塩飴は、その後、給水と給水の合間に2粒ずつ補給していきました。

18 キロ地点でトイレに行きましたが、この辺りの平均速度はキロ6分8秒。

これでも(自分の普段より)速すぎます…

20キロから28キロ

20キロの給水直前で腰のベルトに挟んだエネルギーゼリーを取り出し、一気に食べました(味がキライなのですが、完走のためには役に立ちます)。

私の場合、この中盤の24キロから30キロあたりが1番辛いです。

ここを乗り越えれば、と信じて走り続けていました。

しかし…だんだん足が怪しい雰囲気になってきました。

ちょっと間違えればすぐにでも痙攣するのではないか、という痺れが,

まず右足裏にではじめてきたのです。

給水所ではスポーツドリンク、水やバナナもとりましたが、どうやらあぶない気配が漂ってきました。

 

28キロから38キロ

26キロあたりから、キロあたり7分台に落ちています。

30キロ給水地点前にもう一つ持っていたゼリーを食べましたが、手当が遅い、あるいは足りない。

もう、筋肉は枯渇状態になっていたと思います。

スポーツドリンク、バナナのプラスアルファぐらいでは効きません。

28キロ当たりから脚の痙攣が始まり、走ろうとすると「ムギュー」という感じで筋肉の塊が下から上に突き上げてきて、足が上がらず、走ろうにも走れません。

完全に「攣りました」

ついに歩き始めます。

私ぐらいの速さのランナーは、ほぼ同じ状態。

高温レースで汗をかき、筋肉に栄養がいかなくなって走れない。

ゾンビの群れが、走ったり、歩いたり、はたまた道端でストレッチしたり、という感じでコースが埋め尽くされます。

みんな、走ろうとするのです。

よろよろになりつつ、倒れそうになりつつ動き続ける姿はゾンビ…

その群れに私もいます。

ゴールにたどり着こうという気持ちは全員にあって、でも、走れないのです。

沿道の応援にも笑顔で応えられず、うつむいて早足で歩き続けます。

一歩でもゴールに近づきたい。

必死の思い出足が少しましになると走ります。

でも、気持ちがもう、切れているので、走り続けることができません。

500メートル走り、600メートル歩き、みたいな行進を続けます。

30キロすぎの坂のところでは救急車が一人を収容していました…

あとはコース脇に倒れ込んで介抱される人があちらにもこちらにも。

明日は我が身、と思いながら横目に通り過ぎます。

38キロからゴールまで

30キロ付近ではまだ10キロ以上ある、これ、全部歩いたらすごいタイムになってしまって収容バス行きになる、と恐れていました。

38キロを過ぎて、なんとか残り4キロは走り通したい、と思いましたが、40キロ過ぎまでは、やはり走りと歩きを交互に繰り返しました。

走り始めると、足が攣ります。

40キロを過ぎ、「あと2キロは走り続けよう。来季のリベンジにつなげたい。ここで走りきれるかどうかに今後がかかっている」と決意し、

そのまま、「どんなに遅くても走りきる」と決めて、走り続けました。

沿道のみなさんが「もうすぐ、もうすぐ」と励ましてくれます。

あぁ、全くアカの他人でも、こんなに応援してくれる人がいる

これが市民マラソンのよさ…なのです。

応援する人が「頑張れ」という言葉に込めた思いしっかり受け止めて、そして自分もまたいつかお返しする気持ちで走り続けました。

沿道の方々の声援を受け、最後の2キロは歩かず、来季のリベンジに向けて

走り続け、無事「笑顔でゴール」することができました。

2. 練習とコンディション作り

充実していた今季の練習

ゴールして、計測チップを外してもらい、記録証を受け取り、実はビックリしました。

5時間4分。

もちろん自己ベストには程遠い記録ですが、帰宅して過去9回のレース記録を確認すると、私に取って10回目となるこのマラソンは、

なんと歴代4位の記録です。

ワーストが途中で歩いた大阪(2014年10月)、この日も暑くて完走できなかった人が続出した大会ですが、5時間40分。

ベストが初マラソンの4時間38分。

歩いた距離は長かったけど、最初の「貯金」が結果的には記録を縮めたようです。

ここに到るまで還暦(現在59才10ヶ月)自己ベスト!を掲げて練習を続けてきましたが、

今季は特に「インターバル」とか、4時間走とか、

ランニングクラブ(マラソン完走クラブ)に入ったおかげでいい練習ができました。

一人では絶対追い込んだ練習はできませんでした。

コンディション作りの失敗

今回はこれに尽きる、のですが、大阪は私の故郷。

実家からの出発です。

84歳の母がいて、要支援1です。まだ元気なのはありがたいのですが、だいぶあやしくなってきています。

なので、土曜日、試合前日は母を病院に連れて行き、「認知症」テストを受けさせたりしていました。

その後、電車でゼッケンを受け取るために会場にエントリーに出かけ、帰宅後、遅い昼食。

夕食は「ごっつぉ(ご馳走)」が食べたい、というので「しゃぶしゃぶ」を食べに出かけました。

普段、あまり肉食をしない私にはちょっとツライメニューです。

そんなこんなで、一日の歩行距離が12000歩を超えてしまいました。

普段、前日は足休めのためにほとんど歩かないようにしているのに…

そして夜中、母の大いびきとトイレ往復で目が覚め、また、友人関係でもちょっといざこざがあったために(気にしてしまう…)

夜中の1時ごろから目が冴えて眠れなくなってしまいました。

朝は、普段ならしっかり食べて静かにレースのことを考えるのですが、

「起きてこなくてもいい」のに母が張り切って起きてきてとにかく私の面倒をみたがります。

「おにぎり作ったろか」「お茶いるか」「水いるか」「卵焼いたろか」…耳が遠いのでそれぞれに大きな声で「いいから」と答えます。

とうとう「じっとしててね(静かにしててね)」とお願いすると、今度は「皇室アルバム」など見始める…(早朝感満載ですね)

素人マラソンとはいえ…気持ちを集中させたい時もあるのです。

逃げるように家を出ました。

いやー、メンタル弱いです。でも、今後レースの時は2度と実家出発は選ばない、と決心しました。

(本当は、母が元気なのはありがたいこと、なのですが)

3. まとめ

自己ベスト更新は、本当に還暦に持ち越してしまいました。(すでに来季のことを考えている)

後期高齢者まであと15年。1年に2レース(秋と早春)走るとすると、あと30レースあります。

あと30レースをできるだけサブ4.5(4時間半)で走り続けたい。

今回、自己ベストは出ませんでしたが、とてもいい経験をしたと思っています。

むしろこのまま自己ベストが出ていたら自分は「私が本気出せばこんなもんだい、えへん」と天狗になっていた、と思うのです。

でも、いつの場合も落とし穴があり、成功も失敗もあり…それでも前に進んでいく。

これからも練習は続きます。

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この記事を書いた人

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大野 清美

1958年大阪生まれ、大阪育ち。子どもの頃の夢だった「留学したい」を37歳で実現。3児を育てながら米国NY州コロンビア大学国際関係学大学院を卒業しました。帰国後は英語を使って仕事を続け、今後は「自分の人生を変えてきた」英語を教えたい!と修行中です。
趣味はマラソンとモーターバイクでのツーリング(愛車Honda VTR)です。
(2019年4月記)