【沖縄旅行】基地を巡り(2018年8月9日-12日)、ひめゆりの塔に行き、島唄を聞き、沖縄ぜんざいを食べる… 

夫婦で沖縄に行きました。

沖縄と言えば「海!」

でも夫が行きたかったのは…?

1. 普天間、嘉手納、辺野古まで

9時、前日依頼した観光タクシーに乗り、ホテルを出発しました。

7時間予約をしています。

夫は大雑把に「美ら海水族館」に行きたいと注文していたようですが、

実は行きたかったのは

普天間基地、嘉手納基地、そして辺野古、最後に美ら海水族館、

というコースでした。

普天間基地はもちろん入れませんから、

そこを見るには嘉数高台公園という高い場所から

見渡すことになります。

アクセスや地図などは以下のページに詳しく書かれています。

嘉数高台公園

こちらの高台に登る前に、激戦のあとを辿るトーチカを

見に行きました。

トーチカとは、ロシア語で拠点を意味する軍事用語で、

このコンクリートの壕のなかからアメリカ軍を迎え撃とうと

待ち構えていたようですが…たくさんの弾痕がアメリカの艦砲射撃の

激しさを物語っています。

↓この穴から機関銃で米軍を撃退しようとしていた…

 

そして、この図の写真が示すように、町のど真ん中に基地があります。

あるいは基地の周りに町ができた…という人もいます。

緑に見える部分が基地ですが、オスプレイなどの飛行機は休日のせいか

1機も見えませんでした。

次に訪れたのは嘉手納基地を望むことができる「道の駅かでな」です。

道の駅かでな

道の駅かでなの建物の屋上から

広大な基地を臨みます。手前の緑の濃い部分は沖縄の地主さんが耕す畑だそうです。

写真の奥の方に滑走路が見えています。

広大な広大な敷地です。

そして、次は「辺野古」へ。

辺野古(Wikipediaより)

残念ながら辺野古に行く頃にタクシーで少し

車酔いしてしまい、

タクシーの外に出ることができませんでした。

夫と運転手さんが2人で車を降り、海辺からの大浦湾の

眺めを見ていました。

その後訪れた美ら海水族館ですが、名物ジンベイザメを観て

あとは人ごみにまみれてしまいました。

すごい人だったー。しかも日本語がほとんど聞こえない。

2. 平和記念公園、ひめゆりの塔、旧海軍司令部壕を巡る

首里城は見学したいと言っていた夫ですが、

ホテルに戻ってきて「明日もタクシー使えば行けるな」とばかりに

今度は

沖縄県営平和祈念公園

ひめゆりの塔(ひめゆり平和記念資料館)

をめぐることにしました。

平和記念公園では、その広大な敷地に沖縄戦で闘った多くの方の

名前が墓碑銘に刻まれています。米兵の名前も。

オバマ大統領がここを訪れたときに敵兵として戦士した

米兵もともに記名されていることにとても感銘を受けたそうです。

この沖縄の海に逃げ場を失って身を投じた人がどれだけいたことか…

ひめゆりの塔では見ること、

聞くことの重に軽々に写真にとることが

できませんでした。

敷地内に「ガジュマル」の木があるのですが、その生きる工夫、

生命力に感動して思わず写真を撮りました。

ガジュマルという木は、幹から「気根」を出し、

それらが成長し、からまり(ガジュマルの語源?)、

地面に達し、根をはやし、太くなっていく植物です。

沖縄から屋久島にかけて自生する植物だそうです。

資料館では、

証言ビデオがやはり生々しかったと同時に

「ああ、よくぞ生き残って語ってくださった」、これを

語り伝えてくれてありがとうございます、

本当に辛かった、怖かったですね、という

言葉が浮かびました。

また、資料館に置かれている何冊もの

生存者の証言本で

「兵隊さんの傷口にウジ虫がわいて

そのウジ虫が「じゃくじゃく」と音をたてていた」というくだりがあって

その擬音が「じゃくじゃく」だったか「しゃくしゃく」だったか

よくは覚えていないのだけれど、

本当に恐ろしいことだと、それ以上の言葉がでないぐらい

衝撃を受けました。

そして、何より「ひどい」と思ったのは、

「動員された222名の生徒のうち、123名が死亡。

そのうち107名は解散命令後死亡した」

解散命令で、生徒たちはその場に投げ出されたという事実でした。

山に逃げた子、海に逃げた子…突然のサバイバルゲームに

指揮官もなく投げ出されたこどもたち。

生死はまさに紙一重の差だったと思います。

アメリカ軍の機銃掃射、防空壕への火炎放射器、沖合からの絶え間ない艦砲射撃…使用された銃弾・砲弾の数は、連合国軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された。地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、「鉄の暴風(英: Typhoon of Steel)」などと表現される。    Wikipedia「沖縄戦」より

雨霰と降り注ぐ銃弾。

私ならどこへ逃げたでしょう。

私の娘だったら生き延びることができたでしょうか?

3. 沖縄を味わう

戦争の傷跡をあちこちに残した島とはいえ

(まだまだ不発弾が時折見つかるそうです)、

観光客(特に中国、韓国の方がおおかった)は引きも切らず。

もちろん、沖縄には楽しい面がいっぱいあります。

ホテルから「国際通り」までは沖縄自慢の公共交通機関

「ゆいレール」で移動。

国際通りをぶらぶら歩きしました。

ブルーシールアイスを食べ、

国際通りでは店先のハブ酒が印象的。これ、本当に呑むの?

そして、ライブハウス「島唄」で

「ネーネーズ」という地元出身のトリオの唄を聞きながら

ゴーヤチャンプルとソーメンチャンプルを食べました。

うん、やっぱり沖縄はゴーヤが美味しいな。

って、本当はもっと濃い味のいろいろな郷土料理があると思うのだけれど。

唄、上手いし、一緒に踊る場面もあって楽しい。

常々その動きが気になっていた沖縄の踊り(カチャーシー)を

教えてもらって一緒に踊りました。

(まあ、真似事です。あとでUtubeで見ると実際はもっと

複雑な手の動きでしたね)

買わなかったけど、「豚」料理はその種類がすごい(牧志市場で)!

首里城で沖縄そばと沖縄ぜんざい(沖縄ぜんざいは、小豆ではなく

「金時豆」を使っているのが特徴なのだそうな。

金時豆を甘く煮て、白玉を入れ、その上にかき氷がのっています。

暑くてあっという間に食べてしまったので写真はありませんが…

↓首里城、改装中。

そして、沖縄最後の夜は、

ホテル近くの居酒屋「ちぬまん」でゴーヤチャンプルなど…

やたらゴーヤばかり気に入っています。

4. まとめ 沖縄の青い空、広い海

台風がきていてあまり青い空や海を楽しむことは

できませんでしたが….

「もし、時代が違ってあのひめゆり部隊に自分が、あるいは

自分のこどもが動員されていたら」

「軍国教育を受けていたら、やはり信じ込んでいただろうな」

と、戦後、平和な時代に生まれ育ったこと、

そして沖縄の方々がまさに命がけで

日本を救おうと闘ってくれたこと、

感謝せずにはいられませんでした。

さて、今回の収穫は、何と言ってもタクシーの運転手さんとのお話でした。

旅に出て、地元の方と話をする、こうした機会が作れたことが

とてもよかったです。

基地問題についても、運転手さんの仲間うちでも意見がわかれ、

喧嘩になることも多いそうです。

帰宅後、夫が薦める

「日本の一番長い日」という映画を2人で観ました。

一億玉砕にならなくて、本当によかった…時に「奇跡」は起こるかもしれないけれど

目に見えるはずのものを「見ないように」して起こるような奇跡は

ありません。

太平洋戦争末期、戦況が困難を極める1945年7月。連合国は日本にポツダム宣言受諾を要求。降伏か、本土決戦か―――。連日連夜、閣議が開かれるが議論は紛糾、結論は出ない。そうするうちに広島、長崎には原爆が投下され、事態はますます悪化する。“一億玉砕論”が渦巻く中、決断に苦悩する阿南惟幾(あなみ これちか)陸軍大臣(役所広司)、国民を案ずる天皇陛下(本木雅弘)、聖断を拝し閣議を動かしてゆく鈴木貫太郎首相(山﨑努)、首相を献身的に支え続ける迫水久常書記官(堤真一)。一方、終戦に反対する畑中健二少佐(松坂桃李)ら青年将校たちはクーデターを計画、日本の降伏と国民に伝える玉音放送を中止すべく、皇居やラジオ局への占領へと動き始める・・・。(c)2015「日本のいちばん長い日」製作委員会

用意した水着は1度も着なかった沖縄旅行でしたが、

タクシーを使ったおかげで効率よく

思ったよりもたくさんの場所を見ること、そして多くのことを

感じることができました。

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この記事を書いた人

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大野 清美

1958年大阪生まれ、大阪育ち。子どもの頃の夢だった「留学したい」を37歳で実現。3児を育てながら米国NY州コロンビア大学国際関係学大学院を卒業しました。帰国後は英語を使って仕事を続け、今後は「自分の人生を変えてきた」英語を教えたい!と修行中です。
趣味はマラソンとモーターバイクでのツーリング(愛車Honda VTR)です。
(2019年4月記)