【書評】「走ることについて語る時に僕が語ること」(村上春樹)を読んで

走るのを止めるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるけれど

日々走ることは僕にとっての生命線のようなもので、忙しいからと言って手を抜いたり、やめたりするわけにはいかない。もし忙しいからというだけで走るのをやめたら、間違いなく一生走れなくなってしまう。走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのを止めるための理由なら大型トラップいっぱい分はあるからだ。

コロナ感染症の蔓延により、3月半ばから在宅勤務となりました。

職場近くの自分の基地から都内の家族と住む家に戻り近くの駒沢公園を走るのが日課になりました。

1日10キロ。5月6月は月間260キロ以上を達成し、少し欲が出て7月には300 km を走りました。

例年なら7月はすでに暑くて走れないのですが、幸い長梅雨で気温があまり上がらなかったために

結構走ることができました。

8月に入って気温が急上昇しかなり走ることが辛くなってきましたがなんとか続けています。

もともと苦手だったランニングをサボりたい気持ちは毎日あります。

4月頃には雨が降ったらラッキーとばかりにランニングを休んでいました。

しかし在宅勤務が続き、まさに朝走らないとその日一日ほとんど動かないような生活となり、

走っていなければ今頃洋服のサイズも2ランクアップしていたかもしれません。

朝、5時40分に起き、6時から瞑想、7時から走るということがそれでも習慣化し、

走らない日は帰って気分が滅入るそんな感じになってきました。

それでもサボりたい気持ちは山ほどあります。

なぜ走るのか

村上春樹は小説を書き続ける、そのために走っています。

私は何のために走っているんだろう。

私にとって英語を続けることと走ることは今は同じような位置にあると感じます。

外国語を母国語と同じレベルに引き上げること、

そしてマラソンで6年前の自分を超えること、どちらも困難で、

それだけにやりがいがあります。

達成欲の強い私にとってこれほど困難で、また、面白い営みはなかなかありません。

こどもの頃憧れた留学が見果てぬ夢、実現の可能性が極めて低い目標ではありましたが、

夢を忘れず諦めず努力を続けることで1/4世紀後には達成できていました。

単なる成功体験というより、事実として自分は自分の力でできることに向かって進んでいる、

そんなことを感じるのが私にとって走ることの意味なのです。

その後に何があるか

世間には時々、日々走っている人に向かって「そこまでして長生きをしたいかね」と嘲笑的に言う人がいる。でも思うのだけれど長生きをしたいと思って走っている人は、実際にはそれほどいないのではないか。むしろ、たとえ長く生きなくてもいいから、少なくても生きているうちは十全な人生を送りたいと思って走っている人の方が、数としてはずっと多いのではないかという気がする。同じ10年でもぼんやりと生きる10年よりはしっかりと目的をもって、活き活きと生きる10年の方が当然のことながら遥かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている

村上春樹はなぜこれほどまでにうまく私の気持ちを代弁してくれるのだろう。

この作品は、彼にとっては小説の余儀のようなものだけれど

走っている間の気持ちをこんなに克明に描写できる人はなかなかいません。

ランナー(選手というより市民ランナー)ならば誰もが読んで共感する本です。

まとめ

走ること、生きること、生き生きと生きること、そして終わりのない英語への探究。

今日も村上春樹は走っているのでしょうか。

彼が小説を紡いでいるのと同じように

私も自分の人生を実りの多いものにするために

日々走る。

走ることは孤独な行為ではあるけれど、完全に一人ではありません。

一人でできることではあるけれど、仲間と喜びや苦しみを分かち合いながら

どこかで繋がりながら走っている。

単に走るなんて、貧乏人のやること、何が面白いのかと揶揄する人がいることも知っています。

では、単に走る、ただそれだけのことをあなたは愚直にできるのか?とまあ、

言い返すことはないけれど、その揶揄を呑み込みながら

「お前にはできないことさ」とこちらも冷笑して、ただ走るのです。

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この記事を書いた人

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大野 清美

1958年大阪生まれ、大阪育ち。子どもの頃の夢だった「留学したい」を37歳で実現。3児を育てながら米国NY州コロンビア大学国際関係学大学院を卒業しました。帰国後は英語を使って仕事を続け、今後は「自分の人生を変えてきた」英語を教えたい!と修行中です。
趣味はマラソンとモーターバイクでのツーリング(愛車Honda VTR)です。
(2019年4月記)