65歳になった。
高齢者の仲間入りをした。
少し、人生を振り返りたくなった。
で、自分のことを語りたくなった。シリーズを始めます。
生まれも育ちも
昭和33年5月。大阪に生まれた。
産院は寺田町にあった。助産師さんはすごくたくさんの赤ちゃんを
取り上げたと一度新聞にも載った方だった。
実家を片付けた時に母子手帳が出てきたのだけど、
再び無くなってしまい、出てこないので助産師さんの
名前がもうわからなくなった。
私が生まれた時、父は女を作って東京かどこかに逃げていたそうで、
母は、生まれたばかりの私を抱いて、当時の雇人だった戸上さんという
男性の自転車の荷台に乗って産院から帰宅した。
そんな状況だったそうだ。
父にしたら、東京で生活できなくて家に戻ってきたら、
子供が1人増えていた(私が生まれていた)、という状況だったそうだ。
家業は、「旗・カップ」などを小売する商店。
従業員が1人いた。彼は、父が亡くなるまで勤め、
定年前にやめていったのでおそらく40年ぐらいは勤めていたと思う。
店の名前は「有田屋旗店」。
最も古い記憶
私の一番古い記憶の光景は、
小春日和のある日(なので秋から冬にかけてだろう)。
わが家の倉庫のような建物の前で
石段に母と2人で並んで腰掛けて、
柔らかい日差しのなかで棒針編みをしている母の隣にいた、というもの。
私は2−3歳だったのではないか。
家族は、父、母、姉、私の4人。
有田屋旗店は、私が生まれた頃の創業だったと思う。
その前は、祖父が染料(染物に使う)を扱っていて
父は祖父の家業手伝いだった。それを廃業し、小さな商店を
起ちあげたのだ。
とはいえ、父に営業のノウハウがあるわけではなく、
当初、店は閑古鳥が鳴いていたかと思う。
また、景品とか、年末などに会社が配る
「粗品」のタオルとかも扱っていたので、そちらは需要もあり
多少の商売もできていたようだ。
タオルは、生産地である泉佐野あたりから仕入れ、それに会社名を
スクリーン印刷し、たたみ、熨斗紙でくるみ、ビニールに入れ、
半ダース(6枚)ごとに輪ゴムでまとめ、200ダースぐらいをまとめて
ひと包みにし、自転車の荷台に乗せて取引先(扇雀飴)に配達する。
扇雀飴は、大正14年創業の飴の製造・販売会社で、ネットで調べると
今も創業一族(米田さん)が経営している。
米田氏には、有田屋旗店は大変お世話になった。
私の結婚式にも当時会長だった創業者(あるいは二代目?)の米田氏に来ていただいた。
そんな記憶をたどりつつ、
自分の人生を振り返ってみたいと思う。
(写真は、姉が生まれた時の写真。次女だった
私の写真はほとんどない…)