遠距離介護の終焉 母の看取り(1)

突然の死

あまりに突然だった。

というのは、たった2日前、「介護休暇」をとり、

転院を見届けたばかりだったから。

母が入れ歯をはずし、耳も聞こえない状態だったので、

ほとんど、会話は成立しなかったものの、ひ孫の写真を見せると

「かわいいなあ」と言った。それはわかった。

なので、今度行くときはホワイトボードと、フィンガーボードを持参しようと

準備をしていたのだ。

私は母が死に直面していたとき、

駒沢公園で26キロ走をしていた。

携帯は、身につけていなかった。

ので、練習終わってから夫のLINEで気づいた。

延命措置は一切しない、という同意書を提出していた。

母は、もう、亡くなっていた。

「おととい、会ったばかりなのに」

そして、長期入院に向けて覚悟をあらためたばかりだったのに。

大阪へ

もう、霊安室に移されたというので、今更急いでも仕方ない。

ランニング後の汗をシャワーで流して身支度する。

結局病院には6時ごろ到着。

7時半に搬送車がきて、母と一緒に天神橋の葬祭場に到着する。

母は、まさにまるで眠るような風情だったので、

もしかしたら生き返るかもしれない、と思った。

しばらくじっと見ていたけれど、動かない。

入れ歯は口にいれてくれたので、ふごふごした顔になっていなかった。ありがたい。

夜8時すぎから打ち合わせ。

菩提寺は決まっているので、葬儀社から連絡してくれたけれど、

私からもしておいた。

母は、透明冷凍庫に入っている。きれいなままだ。

お線香は、「道に迷わないように」1本。

母は、夫婦喧嘩で父からよく殴られていたけれど、

その父も晩年は母のことを心配していた。

あちらで暖かく迎えてくれるだろうか。

お姑さんは、意地悪だったから、

あちらでもあまり会わないほうがいいね。

旅立ちの準備

実家に戻ったのは、10時ごろ。

遺影に使う写真と、旅立ちの服を選ぶ。

母は、サーモンピンクが好きだった。

明るい色を選んだ。

写真はなかなか難しい。

自分のときは、きちんと指定しておかないと、と思った。

参列者は、私の家族だけ、と思う。

寂しいだろうけれど、母はほぼ末っ子だったし、「家族葬でいい」と

言っていたので、まあ、いいか。

母の友人も、もうみんな高齢だし、2019年に施設に入って以来、

まったく音信不通だ。

葬儀の打ち合わせ、もろもろ

翌日(12月10日土曜日)、朝10時から葬祭マスターさんと打ち合わせ。

家族葬とはいえ、諸々合わせると127万円。

これにお寺さんへのお布施が追加されるから、

150-160万円ぐらいになるかな。

まあ、母は善人だったから、天国に行けるだろう。

施設には、つい一昨日、金曜日に電話して、

「いったん退所、退院したらまた戻りたい」

との意向を伝えていた。

退所手続きや、引っ越しの予定も組んでいたけれど、

それも、もろもろ変更になる。

ところで、亡くなったのが土曜日なので、月曜日まで待たないと

死亡診断書がでない。

それまでにできることはいろいろやっておこうとおもうのだけれど、

何から手をつけていいやら、という状態。まあ、急ぐこともないか。

で、一旦、家に戻り、母のアルバムをいくつか取り出し、

再び葬祭場に戻る。

母と夕方まで一緒にすごす。晩御飯は天神橋商店街で

海老フライ・ハンバーグ・ヒレカツ定食。

なかなかのボリューム。

TOEIC棄権

そういえば、今日は予定では今年初のTOEICを受ける予定だった。

今年は、忙しくてなかなか受験できなかった。

でも、あまりに勉強しなかったから、やっぱり試験は必要かな。

なんて、思ったんだった。

棄権は初めてだな、なんて思いながら就寝。

 

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この記事を書いた人

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大野 清美

1958年大阪生まれ、大阪育ち。子どもの頃の夢だった「留学したい」を37歳で実現。3児を育てながら米国NY州コロンビア大学国際関係学大学院を卒業しました。帰国後は英語を使って仕事を続け、今後は「自分の人生を変えてきた」英語を教えたい!と修行中です。
趣味はマラソンとモーターバイクでのツーリング(愛車Honda VTR)です。
(2019年4月記)