抗がん剤治療と運動:抗がん剤治療をしながらマラソンを走りきった記録(3)

抗がん剤治療をしながらも、マラソンを走りきった記録を書くのですが、ずっとランナーだった訳ではありません。私が走り始めたのは50歳すぎ。それからでもマラソンは走れるものだ、ということを書くとともに、なぜマラソンを走り始めたのか?ということを書いておきたいと思います。

なぜマラソン?

抗がん剤治療中もマラソンの練習をしていた、と書くと

昔から走るのが得意でずっと走っていた人、というイメージを

抱かれるかもしれません。

実は、マラソン歴はまだ数年で、未だ初心者です。

そんな初心者の自分がどうやってマラソンランナーになったか、

についても少し触れておきたいと思います。

きっかけは2008年、50歳になったこと

子供のころから走ることが大の苦手だった私が

ランニングをし始めたのは50歳のときです。

半世紀を生きて確実に人生の半分は終えてしまいました。

だからこそ、これまでにやってこなかったことをやってみようと思いました。

最初は自宅近くの駒沢公園(東京都世田谷区)の1周2キロのジョギングコースを一周するだけせいいっぱい。

そのうちに、すこしずつ距離は伸び、なんとか駒沢公園を2周、4キロ走れるようになりました。

当時は34分かかっていたから1キロあたり8分ぐらいかかっていました。

2009年51歳、2010年52歳、相変わらず4キロぐらいを

何とかかんとか走る日々でした。

初めての10キロ走

2011年1月のこと。年明けから頑張って走る気になり、

年始でもあるし駒沢公園を5周(10キロ)走ってみることにしました。

なかなかのチャレンジで、何とか走れたけれど膝はがくがく、

息も絶え絶え、いったん腰を下ろすと立ち上がれません。

これほど苦しい運動はないと思いました。

だけど、半端ない達成感がありました。

この後、何とか続けられるような気がしていた春先の3月11日。

東日本大震災が発生しました。

放射能汚染に対する不安から、戸外を走る人がめっきり減り、

せっかく練習しようと思っていた気持ちも萎えてしまいました。

それでも少し落ち着いた5月ごろからはランニング再開。

でも、相変わらず駒沢公園2周走るのが精いっぱいでした。

ランニングクラブに入る

転機は2011年、震災の年の秋に訪れました。

勉強会に所属したくて、9月に経済評論家勝間和代さんの私塾、

勝間塾」に入りました。

勝間塾の中には自主的な勉強会がいくつもあり、その一つに

「うな勝ランニングクラブ」というのがあったのです。

SNSで「皇居を走りませんか」というお誘いがあり、

2周10キロを走りきる自信はありませんでしたが、1周ずつ休めば何とかなるかもしれないと思い、参加してみたのです。

夜の皇居。走る人が多いです↓

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結局、グループで2周走って、なんとかついていくことができ

(というか、伴走してもらいました)、しかも走った後の飲み会が楽しくて続けられる気がしました。

もっとも、、帰り道では足が何度もつりそうになったけれど。

その後、ランニングクラブの仲間に誘われて谷川真理駅伝とか、

皇居練習会とかのランニングイベントに参加するようになり、

走れる距離はすこしずつ伸びてきました。

1人で練習するより、みんなと走るほうがよほど楽しい、と気づいたのです。

東京マラソン当選

こうして仲間もできて練習を続けていたところ、2013年の秋、

初めて東京マラソンに当選してしまったのです。

何よりも自分が驚き、そして困りました。

そんな距離、走ったことがない。20キロだって走れない。

マラソン仲間は、大勢が抽選に落ちました。

10倍の競争率なのだから。でも、ここで走らなきゃ、

せっかく抽選に当たった意味がない。

やったことないけど、挑戦してみよう。

早速マラソン経験のあるうなかつランニングクラブの先輩に

練習プログラムを作ってもらいました

最初は5キロから。徐々に1回に走る距離を伸ばしていき、冬が来る頃にはハーフぐらいは走れるようになっていました。

でも、毎日練習していたわけではありません。ルールはただ一つ。

「3日間空けないこと」

このペースだと、あまり厳しすぎず、続けることができました。

そして翌年2月、本格的に練習を始めてたった4か月で、

これまで最高10キロしか走ったことのない中年女子ランナーが

東京マラソンを4時間38分40秒で走り切ったのです。

この成果に気をよくして、すぐに4月の霞ヶ浦マラソンを申し込み、また完走。

東京マラソンほどの記録はでなかったけれど、せっかく長距離を走れるようになったのだから、と練習を続けていました。

そんなふうに元気いっぱいな中年生活?を謳歌していたころ、

体の中ではがん細胞ができ、少しずつ成長を始めていたのです…

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この記事を書いた人

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大野 清美

1958年大阪生まれ、大阪育ち。子どもの頃の夢だった「留学したい」を37歳で実現。3児を育てながら米国NY州コロンビア大学国際関係学大学院を卒業しました。帰国後は英語を使って仕事を続け、今後は「自分の人生を変えてきた」英語を教えたい!と修行中です。
趣味はマラソンとモーターバイクでのツーリング(愛車Honda VTR)です。
(2019年4月記)