DV家庭に育ってー続きー姉が遺体となって帰宅した日

今回の話は重いので、かなり迷いながら書いています。

伝えたいことは「死ぬな!」

うまく伝わるかどうか…

(ところで、写真に使っている「カレイ」は、

亡くなった姉の小学生時代の作品です。なかなか才能がある、と思います。)

1. 「DV家庭に育って」の記事の反響

しばらく前に私の小学生時代のことを書いたら↓

DV家庭に育って、今思うこと

多くの方に読んでいただき、また、同じような境遇で育った方も少なからずいて、

「ああ、こどもにそんな思いをさせている親、たくさんいるんだな」

こんな家庭が増えない、そして繰り返されないことを祈り、自分に何ができるか、

考えたのですが、自分にできることは

やはりこうしてアウトプットしていくことで「あなただけではないんだよ!」

なぐさめではなく、

「それでも強く生きていこうよ」というメッセージになれば、と願いました。

さて、そんなこんなのハチャメチャ家庭であってもこどもは成長するもので…でも、

姉にはあまり残された時間はなかった、という話です。

2. 私、中三の夏、三者面談

中学校では持ち前の「負けん気」で成績はトップクラス。

全教科で評価5を揃え

中2の秋には開校以来初の「女子生徒会長」。

それもこれも「母のように『夫に殴られ蹴られ、

メソメソ泣くだけの女になりたくなかった』」というネガティブ・モチベーション

私を牽引していました。

(今となっては、「我慢強い」母に「よくがんばったね」と言うしかないです。

多分、父にもそれなりにいいところもあったのでしょう。

ただ、私だけは可愛がってもらいましたが。)

事件は、私が中三の7月、こどもの頃よく遊んだ高津神社の

「夏祭りの日」に起こりました。

母と私、担任の先生と三者面談をしているときのこと。

学校に電話がかかってきて、「H(姉)が倒れたからおかあさんは家に帰るように」

と告げられました。

姉のHは、それ以前から何度か貧血で倒れたことがあり、

その日も同じように貧血か、と思った母と私は「いつものことだから」と

三者面談を続けていました。

再び家から学校に電話。

「急いで帰れ」と。

そうして帰宅してすぐに向かったのは阿倍野(大阪市)にある救急病院でした。

姉が遺体となって病室に安置されていました。

アルバイト先で倒れ、救急車で運んだけれど

「救急車に載せるときにはもう死んでいた」との話。

父、母にとってこれほどの衝撃はなかった、と思います。

朝、普通に家を出た娘が昼には死んでいた。

病院は死因を調べたいので解剖したいと言ったようですが

娘の身体にメスを入れることを望まなかった父は

断りました。

3. その日の朝、姉と私

姉とは仲の悪い姉妹でした。

姉はおばあちゃん子で小学校の成績もあまりよくなく、

私は(反面教師がいっぱいいるおかげで?)「優等生」(あー、古いことばだ!!)

父が放蕩していたので母はお金の工面(親戚に借りに行くしかなかったけど)に忙しく、

初孫だった姉は幼少時にはおもに祖母に甘やかされて育てられたのです。

祖母に似て偏食。小学校に上がる頃になっても靴下を自分で履けず、

肉、魚が食べられないこどもに育ちました。

日清のチキンラーメンやエースコックのワンタンめん、

そして卵かけご飯などが好きな人でした。(ほとんど炭水化物のみ)

そのように育ったせいかどうなのか、小学校高学年ではやや肥満児。

あまり成績はいい方ではなく、先行きを心配して

両親は姉を中学校から私立に入れました。

私が子供の頃は公立は「頭のいい子が通う学校、私立行くのはあかん子」

という時代でした。

(あ、灘とかの名門は別ですよ)

姉が進んだ学校は今や関西ではトップの進学女子校になりましたが、

当時はバレーボールが強いだけの学校でした。全国大会でも優勝度々。

姉はバレーボールが好きで、才能もあったようです。

バレー部に入り、頑張っていましたが、肉魚食べない偏食のせいか、中3ごろから

度々貧血で倒れるようになりました。

そして高校に進む頃には医者からバレーボールの部活は禁止されてしまいました。

何と言っても春高バレーの常連校で何度も日本一になっていて、激しい練習なので

とてもついていけるような体力ではないと判断されたようです。

バレーを諦めた姉は「フェンシング部」に入りました。

運動がしたかったのですね。

そこでもそこそこ活躍していたようです。

運命の高三の夏、姉は学校では禁止されている

アルバイト(事務職)をしていました。なぜだかわかりませんが、

遊ぶお金が欲しかったのかもしれません。

やんちゃな姉は校内生徒の中で一番長いスカートをはき、

流行していた通学カバンペチャンコスタイルで

校内を闊歩していたようです。

校則は厳しかったはずですが…

のちに彼女の命日になる日の朝、私は姉と少しだけ会話をしました。

「パン食べる?」というのが私の言葉だったかと思います。

「食べない」と言ったかどうか、あるいは姉は食べると言ったのに

私が意地悪をしてあげなかったかもしれません。

姉は何も食べずにアルバイトに、私はパンを食べて学校に向かいました。

それが生きている姉の顔を見た最後でした。

4. 遺体との対面、それから

阿倍野(大阪)にある救急病院で姉と対面した時、すでに身体は冷たく、

死斑が出てきていました。

中学生だったから「死斑」なんて知っていたかどうか覚えていませんが、

「どんどん死んでいく」という状態が見て取れました。

姉の遺体は家に帰り、慌ただしく通夜となりました。

実感がない、というのはこういうことを言うのでしょう。

涙も出ませんでした。

そして、残酷なことに私は「自分の行く末」の心配をしていました。

私は「一人っ子」になってしまったのです。

これから、「あの両親」を私一人で支えるのか…と絶望的になっていました。

以前、書いたように父の暴力、母の無力を見て育ちました。

それだけに、自分は大学に進んで「こんな家出ていってやる」と思って

ガリ勉していたのです。

わずか17歳で突然、自分自身もわけがわからないままに、家族の誰にも看取られず、

十分な救急医療を施してもらえたかもわからない状態で命がなくなった

姉の無念さよりも

自分の将来が閉ざされたこと、に私は打ちのめされていたのです。

両親の悲痛、私の絶望をよそに通夜、葬式は慌ただしく進行していきました。

5. 死んではならない

あの暴れん坊の父でさえ、娘の突然の死には愕然とし、茫然自失のまま

喪主を務めました。

「朝になったら起きるかと思ったけど、起きんかったわ」と

ポツリと親戚につぶやいていました。

母の嘆きはもう思いだすこともできません。

姉の死因は実際にはわからなかったので「心筋梗塞」と名付けられました。

↓母が飾るただ一枚の姉の写真です。

…………………..

病死であれ、事故死であれ、身内の死ほど過酷なものはありません。

なので、子どもの自殺、などのニュースを聞くと「なぜだ!」と

心で叫んでしまうのです。

生きることすら叶わなかった命もたくさんあるのに…

(こんな比較は酷ですか?)

親は、子どもが「ただいま」と言って帰ってくるのをずっと待っているものです。

昨日と同じように、今日も当たり前に帰ってくるはずだ、と。

亡くなるということは、その人と二度と話ができなくなる、ということ。

姉とは子ども時代相当仲が悪かった私ですが、それでも成長するにつれ

お互いに歩み寄ることができるのではないか、

と感じる機会も増えてきていた頃でした。

姉が生きていたら、仲の悪い姉妹のまま今頃憎み合っていた可能性も

なくはないですが、やはり生きて語り合えたらよかったのに、と思います。

何より、子を失った親は「何か親としてできることはなかったのか」と

永遠に自分に問い続けるものではないか、と想像するのです。

………………….

私など、「死ぬほど恥ずかしい」思いをしたこととか

大小、失敗もたくさんしてきたけれど、

自死だけは選んではならない。何があっても、とその度に「生きててなんぼ」と

両親の愁嘆場を思い出しては気をとり直すのです。

そんな、中三の夏の日の出来事でした。

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この記事を書いた人

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大野 清美

1958年大阪生まれ、大阪育ち。子どもの頃の夢だった「留学したい」を37歳で実現。3児を育てながら米国NY州コロンビア大学国際関係学大学院を卒業しました。帰国後は英語を使って仕事を続け、今後は「自分の人生を変えてきた」英語を教えたい!と修行中です。
趣味はマラソンとモーターバイクでのツーリング(愛車Honda VTR)です。
(2019年4月記)