私の英語人生棚卸し 英語は人生を変える!!

もうすぐ還暦で、なんだか信じられない、と思いつつ、還暦を新たな起点にしたい、と思う日々です。

で、ここまでどうやってきたか、という自分史になってしまいました。

お時間のある方は、お立ち寄りいただければ嬉しいです。

1. DV家庭に育って

大阪の小さな商店経営の両親のもとに次女として生まれた私は、父の暴力になすすべもなく、されるがままに泣くしかなかった母の姿を見て育ちました。

「女も自立する力をもたないと我慢して生きるしかなくなる」母の姿をみて思っていました。

手に職をつけることがこの環境を脱出する道だ、と考えはじめたのは小学生の頃。

とりあえずできることは勉強すること。自分の成長を待ちました。

姉の突然死

やりたい放題の父でしたが病気も多かった。

瞬間湯沸かし器、と呼ばれていた父はストレスの塊。

私が中2のときには脱疽で足先を切る手術をし、術後の敗血症でほとんど死にかかっていました。

両親と社員1人でやっていた個人商店は父がいない間も定期的な注文のおかげで何とか続きましたが

商売と父の見舞いを泣きながらこなす母を「泣いたってどうなるもんか」と思って見ていました。

私自身は家事や商店の手伝い(タオルを畳んだり、スクリーン印刷の手伝いをしたり)をする「オトナこども」でした。

父は奇跡的に助かり、10か月の入院ののち、退院。

しかしほぼ1年後、私が中3のとき、父の身代わりのように姉が突然死しました。

一人っ子になりました。

親の態度がこれまでの放任から過保護に180度変わりました。

両親、特に母は「墓はどうなる?」とか「養子とらなあかんな」とか言いはじめました。

「跡取り」とか、「名前」とか…

『こんな家に来るような養子ってロクなもんじゃない』と思いながらも息苦しい日々でした。

姉の死から半年して高校に合格。中2までのガリ勉のおかげで高校進学には姉の死は影響しませんでした。

暗黒の高校時代

両親の過保護、家業を継続するための「養子」話。

自立する、とか家を出るとか、そんなことが許されないような状況でした。

両親の喧嘩、というか父の暴力は姉の死後、だんだんおさまってきました。

商売がやや上向きだったことや姉の死で父の衝撃も大きかったのでしょう。

とはいえ、一生親元を離れることができないかもしれない(純真な高校生でした)、と思うと

勉強して大学行って家をでる、という夢が描けなくなっていました。

記念受験のような大学入試。当然合格せず、浪人となりました。

両親にとって、自分の手元から離したくない、でも仲の悪い親戚たちの手前「自慢の娘」が失敗するのは「許せない」。

今となっては身勝手な親に振り回された、未熟な私でした。

親のせい、というつもりはありません。誰もが未熟だったのです。

大学進学

家を継ぐといってもすぐに結婚するわけではないし、

浪人して次の年には大学に進学しました。

英語が得意なわけではなかったけれど、進学した先は英文科。しかも親元を離れて東京に。

そもそも何がやりたいのかわからないなかで、単に「親友が憧れていた」という理由だけで選んだ大学でした。

(もっとも親友は、現役で地元の国立大学に進学し、その大学にはいませんでしたが)

大学時代

親元を離れての大学生活は楽しかった。

ただ、こどもの頃から憧れていた留学の夢をあきらめることは決してありませんでした。

そこで、作戦を立てました。

早く結婚して早くこどもを作って、こどもたちを育ててから留学する

そーんなうまくいくはずもないけれど、当時は真剣でした。

2. 夫の留学

作戦通り、大学卒業後半年して結婚。しかしながら思惑とは違い、こどもができたのは結婚後3年経ってからでした。

作戦とは違いますが、この3年は、幸いなこと時間がたっぷりあり、多分人生で1番勉強ができる時期となりました。

週2回、研究者のアシスタントとしてアルバイトをしながら

通訳養成学校のISS」に通ったり、

「アルクの1000時間ヒアリングマラソン」でヒアリング力をつけたり、

月刊誌スタイルで毎月お届け「1000時間ヒアリングマラソン」

ハロー通訳アカデミー」に通って「通訳案内業」の資格をとったりしていました。

おかげで1984年には「通訳案内士試験」に合格。人生最初の英語に関わる国家資格を得ることができました。

下の写真は、1985年の1年間、英語の情報誌(株)アルクの「イングリッシュ・ジャーナル」の裏表紙を飾った合格記念写真です。

一番前の白いワンピース姿が私です。植山源一郎先生(ハロー代表)がわざわざ写真を現像して送ってくださいました。

この頃は、英語を使って『仕事をする』そして『人生を変える』気持ちで勉強していました。

念願の第一子誕生は夫の留学中でした。

妊娠8か月で飛行機に乗り、到着後、夫が留学するハーバード大学の保健センターに押し掛け(アポもなしに突撃した)、病院を探してくださるようお願いしました。

すると、日本人だということで、日本人の支援をしてくださっていたスー・ボーゲルさん(1980年代、日本で大ベストセラーとなった著書、Japan as No. 1の著者、エズラ・ボーゲル博士の奥様)につないでくれ、スーさんは病院(Brigham and Women’s Hospital)の手配をその場でしてくれました。

そして、なんとか出産にこぎ着けることができたのです。

夫は何も協力してくれなかったので、すべて自力。

でも、英語のおかげで道を切り開くことができました。

3. 帰国、そして翻訳業

夫の1年の留学から帰国し、家族で栃木県に転勤しました。

ここで英語の教員免許を活かし、3か月、臨時教員をしました。

栃木県に長くいる予定はなかったので、次のステップを考えました。こどもが小さかったので家でもできる仕事を、と思い

日本翻訳学院という学校で通信教育を受講。

日本翻訳学院はその後フェローアカデミーと名前を替え、勉強を続けていくうちに

翻訳コースの講師(赤ペン先生)を務めるようになりました。

仙台転勤もありましたが、その間も赤ペン先生をつとめ、また、フェローの翻訳トライアルに合格して翻訳の仕事も任せられるようになりました。

4. ニューヨーク、そしてついに留学

2子、3子は東京で生まれ、夫のNY転勤が決まる頃には3女の母となっていました。

3女が1歳のときに父が亡くなりました。母は1人となりましたが、父の死後1年経つ頃には元気になり、人生を楽しむようになりました。

NY滞在は3年の予定。こどもたちが現地に慣れるまで1年はかかるだろうから、残る2年で大学院に行く計画を立てました。

通訳ガイドの勉強、翻訳の勉強、通訳の勉強、翻訳の仕事…すべてがやっとつながりました。

留学の夢を見始めた中学生時代から4半世紀。

あとは、準備するだけです。入学できるような「応募書類」を。

留学支援サービス(アルク)などを活用し、応募書類を作成、そしてコロンビア大学国際関係大学院に入学することができました。

5. 大学院入学と国連でのインターン

国連で働くことが夢でした。

インターンをすることは大学卒業のために『必須』となっていましたが、

なかなか見つかりませんでした。

偶然、残り福のように空きがあり、採用されたのです。本当に夢のようでした。

インターンとしての仕事はそれほど難しいことではなく(あまり期待もされていなかった?)、でもNY郊外からマンハッタンへの通勤は大変でした。

その辺りの話はこちらに↓

アラフォー留学 国連開発計画(UNDP)のインターンに採用された「偶然と残り福」

ベビーシッターの確保に苦労したり、試験で大変な思いをしたりしましたが、なんとか無事、卒業できました。

6. 帰国と助走

コロンビア大学を卒業し、そして間もなく帰国。

卒業が終わりではありません。

しかし、帰国後はまずこどもたちの「帰国子女」問題に直面しました。

長女のお受験、次女、三女の小学校、理解のない先生もいたり、こどもたちの英語を維持するためにいろいろ工夫したり…

それでも、何とか学んだことを活かしたくて、まずはもともとやっていた翻訳、そして

次は国会議員の秘書(外交を得意とする議員でした)、区役所の非常勤職員(家の近くで、こどものお受験対応がしやすかった)、そして

次女が中学に進学するタイミングで小さなNGOにフルタイムで転職。そこでは英語も使いましたが、あまり活用できる場ではありませんでした。

さらに英語が使える場を、とJapan Times の求人欄をみては毎週土曜日に応募書類を出す、ということをしばらく続けました。

そして、また偶然の力が働いて、現在の職場に転職。「英語はできて当たり前」の職場に。お給料もかなりよくなりました。

7. 1年更新の5年契約を乗り越える

新しい職場は一年更新の5年契約の職種だったので、さらに次の場所を確保するため、

今度はTOEICや英検1級を受けることにしました。

英検1級は、大学卒業の頃受験したのですが、若い頃はなかなか合格しませんでした(スピーチが苦手だったのです)。

でも、もうこれだけ勉強してきたので落ちることはありません。あっさり、一回の受験で合格しました。

TOEICは、私がもっと若い頃はあまり活用される資格ではありませんでした。

しかし、いろいろな場で活用されることになってきたので受験をしておくことにしました。

初めての試験で950点、2回目で980点、そして3回目で990点をとることができました。

こうした「資格」が功を奏して、そしてまた、職場の人事制度がどんどん変わってきたこともあり、

今の職場ではすでに12年目を迎えています。

8. 留学も転職もゴールではない さらなる成長へ

TOEIC990点を2008年に取得して以来、英語の勉強への関心が薄らいでしまいました。

やりきった感があったのです。

英語以外でも、簿記2、3級、ファイナンシャルプランナーなど経理関係の資格も取得しました。

『英語と会計』は生き残るための必須資格と思っていたからです。

確かに、これらの資格は私のサバイバルに役立ってきました。

そしていま、私は再び英語の世界に戻ってきています。

最近受けたTOEICは950点。特にリスニングは495点。これを活かさないのはもったいない、と思いはじめたのです。

でも、今後は英語でキャリアアップしたい人のお手伝いをしたい、自分のためでなく、人の為に自分の『能力』をつかう、それこそが1番能力を活かす道、と悟ったのです。

これから『人に教えるスキル』を身につけていこうと考えています。

遠からず、セミナー(モニター)を開催したりします!楽しみに待っていてくださいね!!

私が英語で人生を変えてきたように、あなたの人生を「英語」で変えてみせます!!

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この記事を書いた人

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大野 清美

1958年大阪生まれ、大阪育ち。子どもの頃の夢だった「留学したい」を37歳で実現。3児を育てながら米国NY州コロンビア大学国際関係学大学院を卒業しました。帰国後は英語を使って仕事を続け、今後は「自分の人生を変えてきた」英語を教えたい!と修行中です。
趣味はマラソンとモーターバイクでのツーリング(愛車Honda VTR)です。
(2019年4月記)